「ハイ。学校を出ますと直ぐに信濃町《しなのまち》のK大の耳鼻科に入りましてズット今まで……」
「そこを出て来た事情は……」
「……あの。あんまり嫌な事が多いもんですから……」
「いやな事ってドンな事ですか」
「……申し上げられません。仕事はトテモ面白かったんですけど……」
「ふうむ。貴女の身元保証人は……」
「あの。下谷《したや》で髪結いをしている伯母さんに頼んでおりますの。いけないでしょうか」
「どうして兄さんに頼まないんですか」
「伯母さんの方がズット世間慣れておりますし、今までその家におったもんですから……きょうも、家にジッとしていないでブラブラ町を歩いて御覧、いい仕事があるかも知れないからって、その伯母さんが言いましたもんですから……」
「お名前は……」
「姫草ユリ子と申しますの」
「姫草ユリ子……おいくつ……」
「満十九歳二か月になりますの……使って頂けますか知ら……」
 これだけの問答で私等は彼女を採用する決心をしてしまった。私ばかりじゃない。妻も姉も、彼女の無邪気な、鳩のような態度と、澄んだ、清らかな茶色の瞳と、路傍にタタキ付けられて救いを求めている小鳥のような彼女のイジラシイ態度……バスケット一つを提《ひっさ》げて職を求めつつ街を彷徨《ほうこう》する彼女の健気な、痛々しい運命に、衷心《ちゅうしん》から吸い付けられてしまっていた。
 笑え……私等のセンチの安価さを……誰でもこの問答を一読しただけで、彼女の身元について幾多の矛盾した点や不安な点を発見するであろう。少なくとも一度、K大の耳鼻科に電話をかけて彼女の身元を幾分なりとも洗って見た上で雇い入れるのが常識的である事に気付くであろう。
 けれどもその時の私等はそうした軽率さを微塵も感じなかった。彼女の容姿と言葉付の吸い寄せるようなあどけなさが、彼女の周囲を渦巻きめぐっているであろう幾多の現実的な危険さに対する私等のアラユル常識を喚起《よびおこ》して、一種のローマンチックな、尖鋭な同情の断面を作って彼女に働きかけさせた事を私等は否定出来ないであろう。その翌《あく》る日、
「ねえお姉様。あの娘《こ》が万一《もし》、看護婦が駄目だったら女中にでも使って遣りましょうよ。ねえ、可哀そうですから」
「まあ。妾もアンタがその気ならと思っていたとこよ。追々お客様も殖《ふ》えるでしょうから」
 と二人が相談し合った
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