失踪《しっそう》した事が、校務打合せのため同下宿を訪問した同校女教諭虎間トラ子女史によって発見された。既報の如く森栖校長はミス黒焦事件以来痛く神経を悩ましていたものの如く三番町の下宿に引籠り、鬚《ひげ》蓬々《ほうほう》として顔色|憔悴《しょうすい》していたが、事件発生後一週間目に当る去る三十一日夜、何処《いずこ》よりか一通の女文字の手紙が同氏宛配達されて以来、何故《なにゆえ》か精神に異状を来たしたものらしく、同下宿の女将《おかみ》渡部スミ子の許に来り、無言のまま涙を流して頻《しき》りに叩頭し、又は二階より往来へ向け放尿しつつ大笑するなど、些《すこ》しも落着かず、夜半に大声を揚げて怒号し、彼奴《あいつ》だ。彼奴だ。黒焦は彼奴だ。火星だ火星だ。悪魔だ悪魔だ。などと取止めもなき事を口走り、女将スミ子を驚かした由《よし》で、その翌日の三月一日は疲労のためか終日|臥床《がしょう》して一食も摂《と》らず。同夜十時頃、前記虎間トラ子教諭が訪問した際も、依然として就床しいるものと思い、女将スミ子が起しに行きたるに夜具の中は藻抜《もぬけ》の空《から》となり、枕元に破封されたる長文の女文字の手紙と並べて虎間女史に宛てたる遺書が置かれたるを発見したるより大騒ぎとなり、県当局、警察当局、同校職員総動員の下に同校長の行方捜索を開始したが、今朝に到るまで同校長の所在は不明で、ただ目下、同校内玄関前に建設の予定にて、東都彫塑、朝倉星雲氏の手にて製作中と伝えられおりし同校長の頌徳寿像《しょうとくじゅぞう》の、塵埃《ちり》と青錆とに包まれたる青銅胸像が、白布に包まれたるまま同下宿、森栖氏専用の押入中より転がり出で、人々を驚かしたのみである。因《ちなみ》に、同校長の枕頭に在った二通の手紙はその後、混雑に紛れて何人にか持去られたるものの如く、女将スミ子、及、虎間女教諭もその行方を知らず。二人とも内容を関知せざる由にて、前記銅像の件と共に森栖氏の失踪に絡《から》まる不可思議の出来事として、関係者の注意を惹《ひ》いている。のみならず前記森栖氏の口走りたる言葉より推《お》して、右二通の手紙は或はミス黒焦事件の秘密を暴露する有力なる参考材料なりしやも計り難く、これを衆人注視の中に持去りたる神変不思議の人物こそ、ミス黒焦事件の有力なる嫌疑者に非ずやとの疑い、関係者間に漸次《ぜんじ》高まりつつ在り。万事は森栖校長の
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