然《しか》るにその一知夫婦の苦心の麦の収穫が、深良屋敷の算盤に乗った頃から、まだ一個月と経たぬ今朝《けさ》になって、その牛九郎夫婦が殺されている……というのは、普通の場合の意外という以上の意外な意味が籠《こも》っているように思われるのであった。だから、これは非常に簡単明瞭な、偶発的な事件か、もしくは一筋縄で行かない深刻、微妙な事件に相違ない……といったような予感が、今朝《けさ》、最初に一知の美しい顔を見た瞬間から、ヒシヒシと草川巡査の疲れた神経に迫って来たのであった。ありふれた強盗、強姦、殺人事件にばかりぶつかって最初から犯人のアタリを附けてかかる流儀に慣れ切っている草川巡査は、この事件に限って、実際、暗黒の中を手探りで行くような気迷いを感じながら、駐在所を出たものであった。
 ところが、それから間もなく草川巡査が、山の中の近道へ廻り込んだ時に、深良一知青年が、背後《うしろ》から叫んだ声を聞くと、そのトタンに草川巡査の心気が一転したのであった。勉強疲れで過敏になっている草川巡査の神経の末梢に、一知青年の叫び声は、あまりに手強く、異常に響いたのであった。それは無論、深良一知が偶然に発した
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