なか》に突然、一知青年が自宅から本署へ拘引されて行ったので、村の人々は青天の霹靂《へきれき》のように仰天した。腎臓病の青膨れのまま駈着《かけつ》けて来た父親の乙束区長がオロオロしているマユミを捉《つかま》えて様子を訊《き》いてみたが薩張《さっぱ》り要領を得ない。仕方なしに山の中で兇器捜査に従事している草川巡査に縋《すが》り付いて、何とかして息子を救う方法は無いものかと泣きの涙で尋ねたが、これも腕を組んで、眼を閉じて、頭を左右に振るばかりである。もとより拘引の理由なぞを洩しそうな態度《ようす》ではないので、手も力も尽き果てた区長は大急ぎで町へ出て弁護士の家へお百度詣りを始めた。
一方に拘引された一知は全く驚いた顔をしていた。
厳重な取調を受けても一から十まで「知りませぬ」「わかりませぬ」の一点張りで、女のようにヒイヒイ哭《な》くばかりであった。その中《うち》に問題の藁切庖丁を売った店の番頭が呼出されて来て、一知の顔を見せられると、たしかにこの人に相違ないと明言し、当日持っていた蟇口《がまぐち》の恰好や、学生らしくない言葉癖まで思い出した立派な証言をして帰ったので、係官一同はホッと一息しながら、直ぐに起訴の手続を取った。
しかし一知は、それでも頑張った。
「私は誰にも怨恨を受ける記憶はありませぬ。しかし藁切庖丁の一件はたしかに私を罪に陥れるためのトリックです。それがわからないのは、貴方《あなた》がたのお調べが足りないからです。在りもしない藁切庖丁で、どうして人を殺すことが出来ますか」
とまで強弁した。
谷郷村では草川巡査の評判が一ペンに引っくり返ってしまった。
犯人は居ないものと決めてしまっていた村の人々は、殆んど一人残らず一知に同情して、草川巡査を憎むようになった。タッタ一人深良屋敷に取残されていたマユミを乙束区長が引取って世話をするようになってからは一層、村民の憎しみが、草川巡査の上に深くなって行ったところへ、町からたまたま来た刑事までもが……これは草川巡査と鶴木検事の一代の大|縮尻《しくじり》かも知れない……などと言葉を濁して行ったりしたので、村の連中は最早《もはや》、一知の無罪を信じ切って疑わないようになって来た。しまいには……草川巡査はズット以前から巡廻の途中で、いつも深良屋敷へ寄道をする事にきめていた。そうしてマユミがタッタ一人で留守をしている
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