るせいじゃないか知らん――
 ――万一、実際の証拠が揚がらないとすれば、コンナにも美しい、若い夫婦の幸福を出来る限り保護してやるのが、人間としての常識ではないか――
 といったような全然、相反《あいはん》する二つの考えが、草川巡査の神経の端々を組んず、ほぐれつ、転がりまわり初めたのであった。

 太陽はまだ地平線を出たばかりなのに、草川巡査と一知が分けて行く森の中には蝉《せみ》の声が大浪を打っていた。その森を越えた二人は無言のまま、直ぐ鼻の先の小高い赤土山の上にコンモリと繁った深良屋敷の杉の樹と、梅と、枇杷《びわ》と、橙《だいだい》と梨の木立に囲まれている白い土蔵の裏手に来た。草川巡査はあとからあとから湧き起って、焦げ付くように消えて行く蝉の声のタダ中に、昨夜《ゆうべ》のままの暗黒を閉め切ってあるらしい奥座敷の雨戸をグルリとまわった時に、云い知れぬ物凄い静けさを感じたように思ったが、やがて半分|開《あ》いたままの勝手口まで来ると、その暗い台所の中で、何かしていた美しい嫁のマユミが、頭に冠っていた白い手拭を取って、ニコニコしながら顔を出した。
「あら……お出《い》でなされませ」
 と叮嚀《ていねい》にお辞儀をしたが、その笑顔を見ると、まだ両親が殺されている事を少しも知らないでいるらしい。極めて無邪気な、人形のような美しい微笑を浮かべていたので、こんな事に慣れ切っていた草川巡査が、何故ともなく慄然《ぞっ》とさせられた。
「マユミさんはまだ何も知らんのかね」
 と草川巡査は眼を丸くしたまま小声でそう云って背後《うしろ》を振返ってみた。汗を拭いていた一知青年が、急に暗い、魘《おび》えたような眼付をしてうなずいたのを見ると、草川巡査も何気なく点頭《うなず》いてマユミを振返った。
「マユミさん。今、神林先生が来はしなかったかね」
 マユミはいよいよ美しく微笑んだ。
「アイ。見えました」
「その時にマユミさんは起きておったかね」
「イイエ。良う寝ておりました。ホホ。神林先生が起して下さいました」
「ウム。何か云うて行きはしなかったかね」
「アイ。云うて行きなさいました。巡査さんを呼んで来るから、お茶を沸かいておけと云って走って出て行きなさいました。それで……アノ……ホホホ……」
「何か可笑《おか》しい事があるかね」
「……アノ……その入口に引っかかって転んで行きなさいました……ホ
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