に切なくなって来ると、黒ん坊はとうとう妾の両足を捉まえて、足首の処を両手でギューと握り締めちゃったの。
 そん時に妾は、初めて、大きな声を振り絞ったわ。両手を顔に当てて力一パイ反《そ》りかえりながら、
「助けて助けて助けて。ヤングヤングヤングヤング」
 ってね。ええ……それあ大きな声だったわよ。咽喉《のど》が破れる位|呶鳴《どな》ってやったんですもの。そうして両足を押えられたまま、起き上っては反《そ》りかえり反りかえりして、固い床板の上に頭をブッ付け始めたの。死んだ方がいいと思ってね。
 そうしたら黒ん坊もその勢いに驚いて、諦らめる気になったんでしょう。
「……ウウウウ……そんなに死にてえのかナア……」
 って喘《あえ》ぎ喘ぎ云いながら、妾の両足を掴んで、床の上をズルズルと、片隅に引っぱって行くと思ったら、そこに置いてあったらしい細い針金《はりがね》で、足首の処から先にグルグルグルグルと巻き立てて、胸の処まで袋ごしに締め付けてしまったの……。
 その時の苦しさったら、それあ、とてもお話ししたって解かりやしないわよ。だってチョットでも太い息をするか、動くかすると、すぐに長い細い針金が刃物みたいに喰い込んで、そこいら中の肉が切れて落ちそうになるんですもの……それでいて、いくら喘《あえ》いでも喘いでも喘ぎ切れない位息が切れているんですもの……妾はそのまま直ぐに気が遠くなっちゃった位なの。だけども又すぐに苦しまぎれに息を吹きかえすと、又もや火の付いたように針金が喰い込むでしょう。地獄の責め苦ってほんとうにあの事よ。そうして息も絶え絶えにヒイヒイ云っているうちに今度は本当に気絶してしまったらしいの。

 それから何分経ったか、何時間経ったのかわからないけど、又自然と息を吹き返した時には、妾はもう半分死んだようになっていたようよ。手や足の痛さがわからなくなってしまってね。……そうして眼だけを大きく見開いてどこかを凝視《みつ》めていたようよ。だからその時に聞いた話も、夢みたように切れ切れにしか記憶《おぼ》えていないの。
「……どうでえ。綺麗な足じゃねえか」
「ウーム。黒人《ニガ》の野郎、こいつをせしめようなんて職過《しょくす》ぎらあ」
「面《つら》が歪《ゆが》んだくれえ安いもんだ。ハハン」
「しかし、よっぽど手酷《てひど》く暴れたんだな。あの好色《すけべえ》野郎が、こんなにまで手古摺《てこず》ったところを見ると……」
「フフン、勿体《もったい》なくもオブラーコのワーニャさんだかんな」
「ウーム。十九だってえのに惜しいもんだナア……コンナに暴れちゃっちゃ、ヤングだって隠しとく訳に行くめえが……」
「……シーッ……来やがった来やがった……」
 って云ううちに、又一人、スパリスパリと煙草を吹かしながら、軽い、気取った足取りで階段を降りて来て、悠《ゆ》っくり悠っくりと妾の傍に近づいた者が居るの……。
 その足音を聞くと妾は気もちが一ペンにシャンとなっちゃったわ。飛び上りたい位嬉しくなって……ヤング……って叫ぼうとしたのよ……。
 だけど妾が起き上ろうとすると、手や足が、胸の処まで氷みたようになって、動かなくなっていることがわかったの。それと一緒に、声がピッタリと咽喉《のど》に閊《つか》えてしまって、名前を呼べる位ならまだしも、声を立てる事すら出来なくなっているじゃないの。何だかそんな夢でも見ているように胸の処が固《こわ》ばってしまってね。もしかすると、あんまり怖い眼に会い続けたので気が変になっていたのかも知れないけど……。
 そうするとヤングは、長い長い大きな溜め息を一つしてから、静かな、猫撫で声かと思うくらい優しい口調で、こんなお説教を妾にして聞かせたの。上品な露西亜《ロシア》語でね……。
「ワーニャさん。温柔《おとな》しくしていて頂戴……。私は貴女《あなた》が憎いから、こんな事をするのじゃありません。よござんすか。よく気を落ち着けて聞いて頂戴……ね。私は貴女が可愛いくて可愛いくてたまらない余りにコンナ事をするのです。私は貴女が、あんまり綺麗で可愛いから、亜米利加《アメリカ》の貴婦人と同じようにして殺してみたくなったのです。ね。いつぞやお話して上げた恋愛ごっこの事を、まだ記憶《おぼ》えていらっしゃるでしょう、ね、ね、わかったでしょう。……私は最早《もう》近いうちに日本と戦争をして戦死をするのです。ですからもう、貴女以外の女の人と結婚する事は出来ないのです。貴女と一緒に天国に行くよりほかに楽しみは無くなったのです。ですから満足して、私の云う事をきいて頂戴。ね、ね、温柔《おとな》しく私の云う通りになって死んで頂戴。ね、ね……わかったでしょう。ね、ね……」
 そう云ううちにヤングは妾の足に捲かった針金を解き始めたの。そうして胸の上までユックリユックリ解《ほど》いてしまうと、
「サアサア。寒かったでしょうね」
 って云いながら、又、もとの通りに袋を冠《かぶ》せて口をシッカリ括《くく》ってしまったの。
 ええ……妾はちっとも手向いなぞしなかったわ。死人のようにグッタリとなって、ヤングのする通りになっていたわよ。
 その時のヤングの声の静かで悲しかったこと――ほんの一寸《ちょっと》の間《ま》だったけど、妾の胸にシミジミと融《と》け込んで、妾に何もかも忘れさしてしまったのよ。……何だか甘い、なつかしい夢でも見ているような気もちになってね……ネンネコ歌にあやされて眠って行く赤ん坊みたように、涙が止め度なく出て来たもんだから、妾はとうとう声を出してオイオイ泣き出しちゃったの。
「……ヤング……ヤング……」
 って云ってね……そうするとヤングは一々丁寧に返事をしいしい妾を袋に入れてしまってから、今一度妾の頭の処を、袋の上から撫でてくれたわ。
「……ね……ね……わかったでしょう、ワーニャさん。温柔《おとな》しくするんですよ。サアサア。もう泣かないで泣かないで。いいですか。ハイハイ。私がヤングですよ。いいですか。サ……泣かないで泣かないで」
 そう云って妾をピッタリと泣き止まして終《しま》うと、静かに立ち上って、這入って来た時と同じように気取った足音を立てながら、悠々と階段を昇ってどこかへ行ってしまったの。
 だけど妾は、やっぱり夢を見ているような気持ちになって、シャクリ上げシャクリ上げしながらグッタリとなっていたようよ。そうすると、あとに残った三人の男たちは手《て》ん手《で》に妾の頭と、胴と、足を抱えて、上の方へ担ぎ上げながら、黙りこくって階段を昇りはじめたの。そのゆっくりゆっくりした足音が、静かな室《へや》の中にゴトーンゴトーンと響くのを聞きながら、妾は何だか、教会の入口を這入って行くような気持ちになっていたようよ。
 だけど第一の階段を昇ってしまうと間もなく、一番先に立って、妾の足を抱えていた男が、変な声でヒョックリと唸《うな》り出したの。そうして何を云うのかと思っていると、
「ウーム。ウメエもんだナア。ヤングの畜生、あの手で引っかけやがるんだナア。どこへ行っても……」
 って、サモサモ感心したように云うの。そうすると妾の腰を担いでいた男も真似をするように唸り出したの。
「ウーム。まるで催眠術だな。一ペンで温順《おとな》しくしちまやがった」
 そうすると又、妾の頭を担いでいた男が、老人《としより》みたような咳をゴホンゴホンとしながら、こんな事を云ったの。
「十七人の娘の中《うち》で、ワーニャさんだけだんべ……天国へ行けるのはナア」
「アーメンか……ハハハハハ」
 こんな事を云っているうちに、又二つばかりの階段を昇ると、ザーザーという波の音がして甲板へ出たらしく、袋の外から冷たい風がスースーと這入って来て、擦《す》り剥《む》けた臂《ひじ》の処が急にピリピリ痛み出したの。それと一緒に明るい太陽の光りが袋の目からキラキラとさし込んで来て、眼が眩《くら》むくらいマブシクなったので、妾は両手で顔をシッカリと押えていたようよ。そうしたら足を抱えていた男が、
「サア……天国へ来た……」
「ウフフフフ。ワーニャさんハイチャイだ。ちっとハア寒かんべえけれど」
「ソレ。ワン……ツー……スリイッ……」
 と云ううちに、妾をゆすぶっていた六ツの手が一時《いちどき》に離れると、妾はフワリと宙に浮いたようになったの。
 その時に妾は何かしら大きな声を出したようよ。……やっと夢から醒めたようにドキンとしてね……だけど、そう思う間もなく、妾の頭が、船の外側のどこかへ打《ぶ》つかると一処《いっしょ》にガーンとなってしまって、いつ海の中へ落ち込んだかわからなかったの……。

 それから又、妾が気が付いて眼を開《あ》いたのは、一分か二分ぐらい後《のち》のようにしか思えないのよ……何だか知らないけれど身体《からだ》中に痺《しび》れが切れて、腰から下が痒《かゆ》くて痒くてしようがないように思っているうちに、フイッと眼を開《あ》いてみたら、そこは忘れもしないこのレストランの地下室でね。いつぞや肺病で死んだニーナさんが寝かされていたその寝台《ベッド》の上に、湯タンポと襤褸《ぼろ》っ布片《きれ》で包まれながら、素《す》っ裸体《ぱだか》で放り出されているじゃないの。おまけに寝台《ベッド》の横でトロトロ燃えているペーチカの明《あか》りでよく見ると、妾の手や足は凍傷で赤ぶくれになっていて、針金の痕《あと》が蛇みたいにビクビクと這いまわっている上から、黒茶色の油膏薬《あぶらぐすり》がベトベトダラダラ塗りまわしてあるじゃないの。その汚ならしくて気味の悪かったこと……妾何だかわからないままビックリして泣き出しちゃった位よ。
 ……だけど、それから間もなく料理番の支那人が持って来てくれた魚汁《ウハー》の美味《おい》しかったこと……その支那人のチーっていうのに聞いてみたら、その時は妾が死んでからちょうど二日目だったそうよ。……妾の袋は、ルスキー島から二海里ばかりの沖へ投げ込まれると間もなく、軍艦と擦れちがったジャンクに拾われたので、その船頭の女房の介抱で息を吹き返したんですってさあ。十七番のナターシャさんも同じジャンクで拾われていたし、パン屋のソニーさんも鯨捕り船だったかに拾われて来たのを、白軍の巡邏船《じゅんらせん》が見付け出して警察に引き渡したんですって。だけど、みんな水をドッサリ飲んでいたんで駄目だったんですとさあ。そのほかの袋は十日ばかし経ってから、タッタ二個だけ、外海《そとうみ》の岸に流れ付いたそうよ。妾怖いから見に行かなかったけど……ホントに可哀そうでしようがないの……。

 妾……この話をするのはあんたが初めてよ。いいえ……誰も知らないの……みんな死んでいるから……。
 それあ浦塩《ここ》ではかなり評判になっているらしいのよ。……ええ……あんたが知らないのは無理もないわよ。あんたはまだ浦塩《ここ》に来ていなかったんですからね。おまけに警察でもこの家《うち》でも、まだ秘密にしているから、新聞にも何も書いてないそうよ。おおかた亜米利加《アメリカ》を怖がっているのでしょう。あの軍艦がしたらしい事は、みんな感づいているんですからね。
 ええ……それあ何遍も何遍も訊《き》かれたのよ。一体どうしてこんな眼に会わされたのかってね。妾が気が付いてから後《のち》の一週間ばかりというもの、警察の人や、うちの主人や、そのほかにも役人らしいエラそうな人が何人も何人も、毎日のように妾の枕元に遣って来ちゃ、威《おどか》したり、賺《すか》したりしながら、ずいぶん執拗《しつこ》く事情《わけ》を尋ねたのよ。……おしまいには先方《むこう》から色んな事を話して聞かせてね……あのヤングっていう士官はトテモ悪い奴で、今年の夏に浦塩《うらじお》に着いた時に、軍艦の荷物が税関にかからないのをいい事にして、阿片《あへん》をドッサリ浦塩《うらじお》に持ち込んで、方々に売り付けてお金を儲けた事がチャンとわかってるんだ……だけども遣り方がナカナカ上手でハッキリした証拠が上らないために、どうすることも出来ないでいたんだ。……そうしたらヤングの畜生めス
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