ただ軍艦の動く響きと、微かな波の音ばっかり……人間の居るらしい音は全く無くなってしまってね……。
その時に妾はやっと、すこしばかり溜息をして気を落ちつけたようよ。妾の袋はキット何かの陰になって、見えなくなっているのに違いないと思い思い、顔中にまつわっている髪の毛を掻き除《の》けながら、なおも、ジッと耳を澄ましていたようよ。
そうすると、それから暫く経って、もうみんなどこかへ行って終《しま》ったと思う頃、今度はたった一人の、重たい、釘だらけの靴の音が……ゴトーン、ゴトーンと階段を降りて来たの。そうして室《へや》のまん中に立ち止まって、そこいらをジーイと見まわしながら突立《つった》っているようなの。
……その時の怖かったこと……今までの怖さの何層倍だったか知れないわ……妾の寿命はキットあの時に十年位縮まったに違いないわよ。……もう思い切り小さくなって、いつまでもいつまでも息を殺していると、そこいら中があんまり静かなのと、気味がわるいのとで頭がキンキン痛み出して、胸がムカムカして吐きそうになって来たの。それを我慢しよう我慢しようと藻掻《もが》いていたために身体《からだ》じゅうが又、冷汗でビッショリになってしまったの。
そうすると、もうどこかへ行ったのか知らんと思っていたその男が馬鹿みたいにノロノロした、変テコな胴間声《どうまごえ》で口を利き出したの。
「……どうしても一ツ足りねえと思うんだがナア……みんなは、おらが三人担いだというけんど、おらあ二遍しけあ階子段《はしごだん》を昇らねえんだがなあ……」
その声と言葉付きを聞いた時に、妾は又、髪の毛が一本一本馳け出したように思ったわ。歯の根がガクガク鳴り出して、手足がブルブル動き出すのをどうする事も出来なかったわ……だってその声っていうのは、ずっと前に一度オブラーコの酒場《レストラン》へ遊びに来て、散々《さんざっ》パラ水兵たちにオモチャにされて外に突き出された、大きな嫌《いや》らしい黒ん坊の声だったんですもの。……その時にその黒ん坊が恨《うら》めしそうな、もの凄い眼付きで妾たちをふり返った顔を、袋の中でハッキリと思い出したんですもの……怖いにも何にも、妾は生きた空がなくなって、もうすこしで気絶しそうになった位よ。今にもゲーッと吐きそうになってね。そうするとその黒ん坊は、
「どうしても無いんだナア……可笑《おか》しいナア……」
って云いながらマッチを擦って煙草を吸い付け吸い付け出て行きそうに歩き出したの。……そん時の嬉しかったこと……妾は思わず手の甲に爪が喰い入る程力を籠めてイーコン様を拝んじゃったわ。
……だけど矢っ張り駄目だったの……階段の方へノロノロと歩いて行った黒ん坊は間もなく奇妙な声を立てながらバッタリと立ち止まったの。
「イヨーッ。あんな処に隠れてら。フヘ、フヒ、フホ、フム……畜生畜生」
と云うなり、ツカツカと近づいて来て、妾の袋へシッカリと抱き付いちゃったの。それと一緒に黄臭《きなくさ》い煙草のにおいと、何ともいえない黒ん坊のアノ甘ったるい体臭《におい》とがムウーと袋の中へ流れ込んで来たようなの。
妾、その時に、どんな風に暴れまわったか、ちっとも記憶《おぼ》えていないのよ。……ただ、ちっとも声を立てなかった事を記憶《おぼ》えているだけよ。誰か加勢に来たら大変と思ってね。……だけどその黒ん坊も、ウンともスンとも云わなかったようよ。おおかた一人で妾をどこかへ担いで行って、どうかしようと思ったのでしょう。暴れまわる妾を何遍も何遍も抱え上げかけては、床の上に取り落し取り落ししたので、そのたんびに妾は気が遠くなりかけたようよ。
だけど、それでも妾は声を立てなかったの。そうしてヤッサモッサやっているうちに、どうした拍子か袋の口が解けて、両足が腰の処までスッポンと外へ脱《ぬ》け出した事がわかったの……。
それに気が付いた時に妾がどんなに勢よく暴れ出したか……アラ又……笑っちゃ嫌《いや》って云うのに……ソレどころじゃなかったわよ、ソン時の妾は……何でもいいから……足が折れても構わないからこの黒ん坊を蹴殺して、その間に袋から脱け出してやろうと思って、頭でも、顔でも、胸でもどこでも構わずに蹴って蹴って蹴飛ばしてやったわ。……ええ……黒ん坊も一生懸命だったようよ。袋の上からシッカリと組み付いて来て、片っ方の手で妾の両足を押えようとするのだけども、妾の両足を一緒に掴まえる事はなかなか出来ないし、片っ方だけ捉《つか》まえても妾が死に物狂いで蹴飛ばしてやったもんだから、しまいにはセイセイ息を弾《はず》ませて、妾の足と掴み合い掴み合いしながらあっちへ転がり、こっちへ蹴飛ばされしていたようよ。……だけど、そのうちに妾の着物と毛布が両手と一緒に、だんだん上の方へ上って来て、息が出来ない位
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