扮装《いでた》ったもので御座いましょう。それから関西あたりへ出て何か大仕事をする了簡ではなかったかと、あの時に推量致しましたが……」
「いかにも――……ところが佐五郎どの程の器量人に逐《お》われるとなると中々尋常では外《はず》されまい。事に依ったらこの方角へ逃げ込んで来まいものでもない。しかも当城下に足を入れたならば、何よりも先に平馬殿の処へ参いるのが定跡《じょう》……とあの時に思うたけに、一つ平馬殿の器量を試《た》めいて見るつもりで、わざっと身共の潔白を披露せずにおいたものじゃったが。いや……お手柄じゃったお手柄じゃった……」
「まことにお手際で御座いました」
「ハハハ……平馬殿はこう見えても武辺一点張りの男じゃからのう……」
二人は口を極めて平馬を賞め上げながら盆《さかずき》を重ねた。酌をしていた奥方までも、たしなみを忘れて平馬の横顔に見惚《みと》れていた。
しかし平馬は苦笑いをするばかりであった。燃え上るような眼眸《まなざし》で斬りかかって来た女の面影を、話の切れ目切れ目に思い浮かべているうちに酒の味もよく解らないまま一柳斎の邸を出た。
青澄んだ空を切抜いたように満月が冴えていた。
「……これが免許皆伝か……」
とつぶやきながら平馬は、黒い森に包まれた舞鶴城を仰いだ。
平馬の眼に涙が一パイ溜まった。その涙の中で月の下の白い天守閣がユラユラと傾いて崩れて行った。そうしてその代りに妖艶な若侍の姿が、スッキリと立ち現われるのを見た。……本望で御座います……と云い云い、わななき震えて、白くなって行く唇を見た。
堀端《ほりばた》伝いに桝《ます》小屋の自宅に帰ると、平馬はコッソリと手廻りを片付けて旅支度を初めた。下男と雇婆《やといばば》の寝息を覗《うかが》いながら屋敷を抜け出すと、門の扉《と》へピッタリと貼紙をした。
「啓上 石月平馬こと一旦、女賊風情の饗応を受け候上《そうろううえ》は、最早《もはや》武士に候わず。君公師父の御高恩に背き、身を晦《くら》まし申候間《もうしそうろうあいだ》、何卒《なにとぞ》、御忘れおき賜わり度候《たくそうろう》。頓首」
御用のため、江戸表へ急の旅立と偽って桝形門を抜け、石堂川を渡って、街道を東へ東へと急いだ平馬は、フト立止まって空を仰いだ。松の梢《こずえ》に月が流れ輝いて、星の光りを消していた。
平馬は大声をあげて泣きたい気持になった。そのまま唇を噛んで前後を見かわしたが、
「……ハテ……今頃はあの三五屋の老人が感付いて追っかけて来おるかも知れぬ。あの老人にかかっては面倒じゃが……そうじゃ……今の中《うち》に引っ外《はず》してくれよう。どこまで行ったとてこの思いが尽きるものではない……」
と独言《ひとりごと》を云い云い引返《ひっかえ》して、箱崎松原の中に在る黒田家の菩提所、崇福寺の境内に忍び込んだ。門内の無縁塔の前に在る大きな拝石《おがみいし》の上にドッカリと座を占めた。静かに双肌《もろはだ》を寛《くつろ》げながら小刀の鞘を払った。
眼を閉じて今一度、若侍の姿を瞑想した。
……おお……そもじ[#「そもじ」に傍点]を斬ったのはこの平馬ではなかったぞ。世間体《せけんてい》の武士道……人間のまごころを知らぬ武士道……鳥獣の争いをそのままの武士道……功名手柄一点張りの、あやまった武士道であったぞ。……そもじ[#「そもじ」に傍点]のお蔭で平馬はようように真実《まこと》の武士道がわかった……人間世界がわかったわい。
……平馬の生命《いのち》はそもじ[#「そもじ」に傍点]に参いらする。思い残す事はない……南無……。
底本:「夢野久作全集10」ちくま文庫、筑摩書房
1992(平成4)年10月22日第1刷発行
入力:柴田卓治
校正:篠原陽子
2001年4月7日公開
2006年2月22日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
前へ 終わり
全12ページ中12ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
夢野 久作 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング