。何と仰せられます」
「その御連様というた女の様子が聞きたいのじゃ」
「……これはこれは……旦那様は御存じないので……」
「おおさ。身共はその女を知らぬのじゃ」
「……ヘエッ。これはしたり……」
 主人が白髪頭を上げて眼を丸くした。六十余りと見える逞ましい大男であった。投げ卸《おろ》し気味の髷《まげ》の恰好から、羽織の捌《さば》き加減が、どことなく一癖ありげに見える……。
 平馬は思い出した。ここいらの宿屋の亭主には渡世人上りが多いという話を……。
 平馬の想像は中《あた》っていた。
 それから平馬が物語る一部始終を聞いているうちに老人は、両手をキチンと膝に置いた貫碌《かんろく》のある見構えに変った。平馬の顔の真正面に、黒い大きな眼玉を据えていたが、話が一通り済むと静かに眼を閉じて腕を組んだ。
「……迂濶《うかつ》な事を致しましたのう。その奥方様に私が自身でお眼にかかっておりましたならば、何とか致しようも御座いましたろうものを……若い者の鳥渡《ちょっと》した出入《でいり》を納めに参いっておりまする間に、飛んだ無調法を忰奴《せがれめ》が……」
「イヤ。無調法と申す程の事でもない……が……御子息というと……」
「ヘヘ。最前お背中を流させました奴で……」
「ああ。左様か左様か。それは慮外《りょがい》致した」
「どう仕りまして……飛んだ周章者《うろたえもの》で御座います。御仁体《ごにんてい》をも弁《わきま》えませず、御都合も伺いませずに斯様《かよう》な事を取計《とりはか》らいまして……」
 平馬は又も赤面させられた。
「アハハハ……その心配は無用じゃわい。すでに小田原でも一度あった事じゃからのう。つまるところ拙者の不覚じゃわい……」
「勿体のう御座りまする」
「……しかし供《とも》を連れた奥方姿というと話があまり違い過ぎるでのう。世間慣れた御亭主に聞いたら様子が解りはせんかと思うて、実は迷惑を頼んだのじゃが」
「恐れ入りまする。お言葉甲斐もない次第で御座りまするが、只今のような不思議なお話を承りましたのは全くのところ、只今がお初《はつ》で御座りまする。何をお隠し申しましょう。私も以前は二足の草鞋《わらじ》を穿きました馬鹿者で、ヘイ……この六十年の間には色々と珍らしい世間も見聞きして参りましたが、それ程に御念の入りました狐《きつね》狸《たぬき》は、まだこの街道を通りませぬようで……」
「……ホホオ……初めてと申さるるか」
「左様で……表の帳場に座っておりましても、慣れて参りますると、お通りになりまする方々の御身分、御役柄、又は町人衆の商売は申すに及ばず、お江戸の御時勢、お国表の御動静《ごようす》までも、荒方《あらかた》の見当が附くもので御座いまするが……」
「成る程のう。そうあろうともそうあろうとも……」
「……なれども只今のような不思議な御方《おかた》が、この街道をお通りになりました事は天一坊から以来《このかた》、先ず在るまいと存じまするで……」
「うむうむ……殊に容易ならぬのはアノ足の早さじゃ。身共も十五里十八里の道は日帰りする足じゃからのう……きょうも焼津から出て大井川で、したたか手間取ったのじゃが……」
 佐五郎老人はちょっと眼を丸くした。
「……それは又お丈夫な事で……」
「まして女性《にょしょう》とあれば通し駕籠に乗ったとしてものう」
 佐五郎は大きく点頭《うなず》いた。
「さればで御座りまする。貴方様のおみ足の上を越す者でなければ、お話のような芸当は捌《さば》けるもので御座いませぬが……とにかく私がこれから出向きまして様子を探って参いりましょう。まだ左程、離れてはおるまいと存じまするで……」
「ああコレコレ。そのような骨を老体に折らせては……分別してくるればそれでよいのじゃが……」
「ハハ。恐れ入りまするが手前も昔取った杵柄《きねづか》……思い寄りも御座いまするでこの場はお任《ま》かせ下されませい。これから直ぐに……」
「……それは……慮外千万じゃのう……」
「……あ。それから今一つ大事な事が御座りまする。念のために御伺い致しまするが、旦那様は、そのお若いお方の讐討《あだうち》の御免状を御覧になりましたか……それともその讐仇《かたき》の生国《しょうこく》名前なんどを、お聞き及びになりましたか」
「いいや。それ迄もないと思うたけに見なんだが……」
「……いかにも……御尤《ごもっと》も様で、それでは鳥渡《ちょっと》一走り御免を蒙りまして……」
「……気の毒千万……」
「どう仕りまして……飛んだお妨げを……」
 老亭主の佐五郎はソソクサと出て行った。……と思う間もなく最前の小娘が、別の燗瓶を持って這入って来た。ピタリと平馬の前に座ると相も変らず甲高《かんだか》いハッキリした声を出した。
「熱いのをお上りなさいませ」
 平馬は何と
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