りであるが、残念ながらこの若い親方にはトテモ敵《かな》わないと思った。
 一軒隣りの荒物屋のお神さんが移転《ひっこ》すのを考えているというのも無理はないと思った。芝居の丹次郎と、久松と、十次郎を向うに廻わしてもヒケは取りそうにないノッペリ面《づら》が、頬紅、口紅をさしているのじゃないかと思われるくらいホンノリと色っぽい。それが油気抜きの頭髪《あたま》にアイロンをかけてフックリと七三に分けている。
 白い筒袖の仕事着を引掛けているから着物の柄はわからないが、垢の附かない五日市の襟をキュッと繕って、白い薄ッペラな素足に、八幡黒《やはたぐろ》の雪駄《せった》を前半《まえはん》に突かけている。江戸前のシャンだ。二十七八の出来|盛《さか》りだ。これ程の男前の気取屋《きどりや》が、コンナ片田舎のチャチな床屋に燻《くす》ぼり返っている。……おかしいな……妙だな……と男ながら惚れ惚れと鏡越しに見恍《みと》れているうちに、若い親方は、吾輩の首の周囲《まわり》に白い布片《きれ》をパッと拡げた。
「お刈りになりますので……」
 と前こごみになって吾輩の顔を覗き込む拍子に、その白い仕事着の懐中《ふところ》から、何ともいえない芳香がホンノリと仄《ほの》めき出た。
 馬鹿馬鹿しい話だが吾輩の胸がチットばかりドキドキした。……江戸ッ子に似合わないイヤ味な野郎だな……とアトからやっと気が付いた位だ。
「失礼ですが旦那、東京の方で……」
 若い親方が吾輩の首の附根の処でチョキチョキと鋏《はさみ》を鳴らし初めた。
「ウン。これでも江戸ッ子のつもりだがね」
「東京はドチラ様で入らっしゃいますか」
 少々言葉付きが変態である。江戸前の発音とアクセントには相違ないが、語呂《ごろ》が男とも女とも付かない中途半端だ。しかし愛嬌者と聞いたから一つ話相手になってやろうか……気分の転換は無駄話に限る……事によると隣家《となり》の迷宮事件のヒントになる事を聞き出すかも知れない……と気が付いたから出来るだけ気軽く喋舌《しゃべ》り初めた。
「東京だってどこで生れたか知らねえんだ。方々に居たもんだから……親代々の山ッ子だからね」
「恐れ入ります」
「君も東京かい」
「ヘエ……」
 と云ったが言葉尻が聊《いささ》か濁った。
「いい腕じゃないか。鋏が冴えてるぜ。下町で仕込んだのかい」
「ヘエ……」
 と又言葉尻が薄暗くなる。愛嬌者だというのに、どうも、おかしな男だ。東京を怖がっているような言葉尻の濁し方だ。多分東京で色事か何かで縮尻《しくじ》って落ちぶれて来たんだろう。東京と聞くとゾッとするような思い出があるんだろう。
「どうしてコンナ処へ流れて来たんだい。それくれえの腕があれあ、東京だって一人前じゃないか。ええ?……」
「そんなでも御座んせん」
「ござんせん」がイヤに「ござんせん」摺《ず》れがして甘ったるい。寄席《よせ》芸人か、幇間《たいこもち》か、長唄|鼓《つづみ》の望月《もちづき》一派か……といった塩梅《あんばい》だ。何にしてもコンナ片田舎で、洗練された江戸弁を相手に、洗練された鋏の音を聞いているともうタマラなく胸が一パイになる。眼を閉じていると東京に帰ったようななつかしい気がする。
「どうだい。東京が懐かしいだろう」
「……………」
 今度は全然返事をしない。よっぽど気の弱い男と見える。
「ずいぶん掛かるだろうなあ。コレ位の造作《ぞうさく》で理髪屋《とこや》を一軒開くとなると……ええ?……」
「……………」
 話頭《はなし》を変えてみたが、依然として返事をしない。眼を開《あ》いて鏡の中を見ると、真青になったまま、婆《ばばあ》じみた、泣きそうな笑い顔をしいしい首を縮めて鋏を使っている。鏡越しに顔を見られたので、仕方なしに作った笑顔らしかった。
「ヘエ。すこしばかり……山が当りましたので……」
 とシドロモドロの気味合いで答えた。まるで警察へ行って答えるような言葉遣いだ。……どうも怪訝《おか》しい。とにかく一種変テコな神経を持った男に違いない……と思った。それでも頭髪《あたま》はナカナカ上手に刈れている。吾輩の薄い両鬢《りょうびん》に附けた丸味なぞ特に気に入った。巾着切《きんちゃくきり》かテキ屋みたいに安っぽい吾輩の顔の造作が、お蔭で華族の若様みたいなフックリした感じに変って来たから不思議だ。
「山が当ったって相場でも遣ったのかい」
「……ヘエ……まあ。そんなところで」
 若い親方の返事がイヨイヨ苦しそうである。吾輩は又、話頭《はなし》を変えた。
「隣りの家《うち》ねえ」
「ヘエッ……」
 トタンに若い親方の顔が、鏡の中でサッと変った。鋏を動かす手がピッタリと止まった。ヨクヨク臆病な男と見える。そんなに魘《おび》える位なら、そんな恐怖《こわ》い家の近くへ来なけあいいにと思った。
「実は
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