顔を見るなり、刑事に気付かれないように、口を二度ばかりパクパクやってみせた。そのまんま何とも云えない悲痛な微笑を浮かべると、又モトの通りにうなだれて行ったというんだがね。その口の動かし方をアトから考え合せてみると、たしかに二度ともサイアク、オククウと云っているに違い無いと思われた。だもんだから、これは何かのヒントじゃないかって戸田の奴が電話で云ってよこしたんだ。日比谷の自動電話を使って……」
「フーン。しかし夫れだけじゃ特種にならないね」
「だからさ。ヒントなら何のヒントだか、これから考えなくちゃならないんだが、俺ぁトテモ苦手なんだ。こんな事が……しかも此の……サイアク……オククウは星田が村井に伝えてくれと云う意味で、特に村井と心安に戸田の顔を見かけて云ったことかも知れないんだ。戸田自身にソンナ気がすると云ってよこしたんだがね」
「ウーム。サイアク、オククウ……逆様には読めないし……と……サイアク。ダイマク。カイサク。ナイカク。……トクキウ。ホクフウ……わからねえよ。ハハハ……」
「誰か君、星田の懇意な奴を知らないかい。親類でも何でもいい。妻君のほかに……」
「そりゃあイクラでも居るだろう。何とか云う雑誌記者と、いつもつながって歩いて居るって話だがね」
「ウン。その雑誌記者の名前を思い出してくれよ。雑誌は何だい」
「たしか淑女グラフだったと思うがね」
「そいつの名前は……」
「ウン。何とか云ったっけ……ウーン。山口じゃなし、大津じゃなし……と……エーット」
津村記者は全身にジットリと汗を掻《か》き乍《なが》ら焦々《じりじり》と後退《あとじさ》りをし始めた。急角度に折れ曲った狭い鉄梯子から何度も何度も辷《すべ》り落ちそうになってヤット地面の上に足が付くと、今来た道を逆に通って表へ出た。……と思ううちに背後《うしろ》からパッと大光明が射して飛び上るようなサイレンを浴びせられた。大方第何版かを積んだトラックが出かける処であったろう……。
しかし彼はモウ驚く力もなかった。星田が捕まった事さえも当然の事と思えるくらい麻痺《まひ》してしまった頭の片隅で、ただ無意味に「サイアク、オククウ」という言葉を考えながらヨロヨロとよろめき退いた。そうして横の暗がりに在る赤いポストの上に手をかけた。
所が、そのポストに手をかけた瞬間であった。彼はハッとして手を引いた。そのポストの生冷たさが熱鉄のように彼の掌《てのひら》に感ぜられると同時に、彼は或る素晴らしいヒントを得たのであった。サイアク、オククウの謎が解けたのであった。
彼は星田が此頃、極端な西鶴の崇拝者になっていることを知っていた。ことに其の中でも「桜蔭比事」の研究に没頭していて、○○館発行の古い西鶴全集の下巻を振りまわしながら「……ドウダイ津村君……最近、和洋を通じてドエライ発達を遂げた犯罪と探偵小説のトリックのどの一つでも、此の中の何処からか探し出すことが出来ると思うんだがね」と怪気焔を揚げていたことを、昨日の事のように記憶して居たのであった。だから彼は、殺人の嫌疑を受けた星田が、警視庁の裏手で自動車から降りた時にヤット気付いた最後的なヒントを、絶体絶命の思いで村井に伝えて貰おうとした。その物凄いセツナイ努力を、こうした思いもかけぬ方法で、彼自身に受け取ることが出来たものであったろう。
彼は慌てて外套《がいとう》の襟を直した。帽子を冠り直した。タッタ今出て来た新聞社の玄関から、受付の女に咎《とが》められるのも構わずに、一気に階上へ駈け上ると、何度も来たことのある調査部の扉《ドア》をたたいて中に這入った。顔なじみの部員に古い○○館出版の西鶴全集の下巻を出して貰って。それでも帽子を脱いで横に置きながら第六十九頁を開いた。サイカク……六九……サイカク、六九と口の中でくり返しながら……。
――本朝桜蔭比事。巻の四。第七章――「仕掛物は水になす桂川」
昔、京都の町が静かで、人々が珍らしい話を聞き度がっている折柄であった。五月雨の濁水滔々たる桂川の上流から、新しい長持に錠を卸して、上に白い御幣《ごへい》を置いたものが流れて来た。そこで拾った人間が、御前へ差出して処分方を伺い上げたものであったが、開かせて御覧になると、中には古こけた髑髏《どくろ》が五個と、女の髪毛が散らばっていたので、皆、肝を消して震え上った。然《しか》るに、お上では格別に驚かれた様子も無いばかりか、あべこべに拾った人間をお叱りになって、「おのれ。無用の者を見付けて人を騒がせるヤクタイ者。これより直ぐに四条河原へ行って、今度、桂川を流れ下った長持の風説を、芝居に仕組んで興行することまかりならぬと、乞食役者どもへ固く申付けよ」と仰せられた。これは狂言の種に苦しんだ河原乞食どもの仕業と、すぐにお気付きになったからで……云々……(意
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