から一年の間にすっかりその一万円を使ってしまって、今年は乞食になっていたのです」
「そんなら、どうしてそんなお薬を手に入れたのですか」
と思わず太郎さんは尋ねました。旅行商人《たびあきんど》は黙って次の一粒を飲み込みました。するとそれと一所に旅行商人《たびあきんど》は一人の立派な若い紳士の姿に変って、髪までも真黒になってしまいました。
二粒目の丸薬で旅行商人《たびあきんど》から若紳士の姿にかわった乞食は、いよいよ驚いている太郎さんの顔を見て面白そうに笑いながら、又お話しを続けました。
「どうです、坊ちゃん、いよいよ驚いたでしょう。御覧なさい。私は十年前ではこの通りの姿でこの国第一のお医者様だったのです。
私は音なしくしていれば、仕事は益々繁昌するばかりであったのに、思い切って贅沢《ぜいたく》をしたいばかりに、診《み》てもらいに来る病人の生命《いのち》の筋を一人に就いて一年分|宛《ずつ》切り取って、丁度一万年分集めてこの薬を作ったのです。この薬の作り方は誰も知っているものはありません。世界中にただ私ばかりです。この薬を作るためには丁度一万人の人が一年分|宛《ずつ》生命を縮めている筈です。
ああ恐ろしい。人間一人の生命《いのち》が五十年として、私は二百人分の生命《いのち》を取っている訳です。それを思うと私は生きている気持はしません。しかし人の命を助ける役目をする薬で雀の命を取るようないたずら坊ちゃんほどに悪い人間ではありません。
良い者は御褒美《ごほうび》を受け、悪いものは助けられるのが当り前です。私は悪い事をした罰に今から直ぐに死んでしまいます。あなたもすぐに私の真似をなさい。左様なら、太郎さん」
と云ううちに、紳士は掌《てのひら》に残っていた残りの一粒の丸薬を口に入れました。と思うと、そのままあと形も無く消え失せて、あとには三粒の赤い丸薬が地びたの上にころがっているばかりでした。
太郎さんは夢を見たように驚いて、暫くはボンヤリその三粒の丸薬を見詰めておりましたが、やがて気がつくと、自分もいよいよ死ななくてはならぬのかと思うと、情なくて恐ろしくて、身体《からだ》がガタガタふるえて来ました。恐る恐る丸薬を拾って家《うち》へ駈け込んでみますと、いつの間にかお祖父《じい》さんがお帰りになって、火鉢にあたっておいでになります。
太郎さんは紙に包んだ三粒の赤い丸薬をお祖父様《じいさま》の前へ置いて、最前からの話をして、ふるえながら泣いてあやまりました。
太郎さんのお父様やお母様も、太郎さんの泣き声を聞いて何事かと思って出て来られましたが、太郎さんのお話しを聞くと笑いだして、太郎さんの背中を撫でながら、
「何を言うのだ、太郎さん。そのお薬はお祖父様《じいさま》が町から買っておいでになった、風邪引きの薬のお余りではないか。もう古い古い事だから利かなくなっているのかも知れない。それを若返りの薬だなぞと、お前は狐につままれているのじゃないか」
と腹を抱えて笑いころげられました。しかしその中でお祖父《じい》様だけは笑われずにこう言われました。
「それは太郎の云うのが本当であろう。どんな小さなものでも間違ったしかたで使う事がどんなに悪い事であるかという事が、太郎にだけ本当にわかったのだ。他のものは皆嘘と云っても、太郎だけ本当と思えば、それでいいではないか」
底本:「夢野久作全集1」ちくま文庫、筑摩書房
1992(平成4)年5月22日第1刷発行
※底本の解題によれば、初出時の署名は「海若藍平《かいじゃくらんぺい》」です。
入力:柴田卓治
校正:もりみつじゅんじ
2000年1月31日公開
2006年5月3日修正
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