けの空となったり、又はなつかしい父親の横顔になったり、母親の背面《うしろ》姿になったりして、切れ切れのままハッキリと、入れ代り立ち代り浮かみあらわれて来るのを、瞼《まぶた》の内側にシッカリと閉じ込めながら、凝然《じっ》と我慢していたのであった。
ところがその悪酔いが次第に醒めかかって、呼吸が楽になって来るに連れて福太郎は、自分の眼の球の奥底に在る脳髄の中心が、カラカラに干乾《ひから》びて行くような痛みを感じ初めた。それに連れて何となく、瞼が重たくなったような……背筋がゾクゾクするような気持になって来たので、吾ともなくウスウスと眼を開いてみると、その眼の球の五寸ばかり前に坐っている、誰かの背中の薄暗がりを透して、今までとは丸で違った、何とも形容の出来ない気味の悪い幻影《まぼろし》が、アリアリと見えはじめているのに気が付いたのであった。そうしてその幻影《まぼろし》が、福太郎にとって全く、意外千万な、深刻、悽愴《せいそう》を極めた光景を描きあらわしつつ、西洋物のフィルムのようにヒッソリと、音もなく移りかわって行くのを、福太郎はさながら催眠術にかけられた人間のような奇妙な気持ちで、ピッタリと凝視させられているのであった。
……その幻影《まぼろし》の最初に見え出したのは、赤茶気た安全燈《ラムプ》の光りに照し出された岩壁の一部分であった。
それは最前、斜坑の入口で、福太郎が遭難するチョット前に、立止って見ていた通りの物凄い岩壁の凸凹《でこぼこ》を、半分麻痺した福太郎の脳髄が今一度アリアリと描き現わしたところの、深刻な記憶の再現に外ならなかった。さながらに痩せこけた源次の死面《しにがお》のように、ジッと眼を閉じて、歯を喰い締めたまま永遠に凝固している無念の形相《ぎょうそう》であった……が……しかしその一文字に結んでいる唇の間から洩れ出す、黒い血のような水滴のシタタリ落ちる速度は、現実世界のソレとは全く違っていた。
それはやはり、福太郎の麻痺した脳髄の作用に支配されているらしく、高速度活動写真機で撮った銃弾の動きと同様にユックリユックリした、何ともいえない、モノスゴイ滴たり方であった。
最初その黒い水滴が、横一文字の岩の唇の片隅からムックリとふくれ上ると、その膨れた表面が直ぐに、福太郎の手に提げている安全燈《ラムプ》の光りをとらえて、キラキラと黄金色《こがねいろ》に反射した。そうして虫の這うよりもモット、ユックリと……殆んど止まっているか、動いているかわからない位の速度で、唇の下の方へ匍《は》い降りて行く。そうして唇の下縁《したふち》の深い、痛々しい陰影の前まで来ると、そこでちょっと停滞して、次第次第にまん円《まる》い水滴の形にふくれ上って行くと同時に、仄暗《ほのぐら》い安全燈《ラムプ》の光りを白々と、小さく、鋭く反射し初める。そうして完全なマン円い水滴の形になると、さながら、空中に浮いた満月のように、ゆるやかに廻転しながら、垂直の空間をしずかに、しずかに、下へ下へと降り初める。その速度が次第に早くなって、やがて坑道の左右に掘った浅い溝の陰影の中に、一際《ひときわ》強い七色《スペクトル》光を放ちながら、依然として満月のように廻転しつつ、ゆっくりゆっくりと沈み込んで行く……と思うとそのあとから追っかけるように、またも一粒の真黒い、マン円い水滴が岩の唇を離れて、しずかに輝やきながら空間に懸かっている。
……そのモノスゴサ……気味わるさ……。
福太郎の両眼は、いつの間にか真白になるほど剥《む》き出されていた。その唇はダラリと垂れ開いて、その奥にグルリと捲き上った舌の尖端には、腸《はらわた》の底から湧き上って来る不可思議な戦慄が微かに戦《おのの》きふるえていた。
その時にお作がアノヨの吉[#「アノヨの吉」に傍点]と一緒に踊り出した。道行を喝采するドヨメキが納屋の中一パイに爆発した。
それを聞くと源次は、思わずハッとしたように、屏風の蔭から部屋の中をさし覗いたが、そのまま又も引付けられるように福太郎の顔を振り向いて半身を傾けた。赤黄色いラムプの片明りの中に刻一刻と蒼白く、痛々しく引攣《ひきつ》れて行く福太郎の顔面表情を、息を殺して、胸をドキドキさせながら凝視していた。
「……此奴《こいつ》はホントウに死によるのじゃないか知らん、……頭の疵が案外深いのを、医者が見損のうとるのじゃないか知らん……死んでくれるとええが……」
と思い続けながら……。
しかし福太郎はむろん、源次のそうした思惑に気付く筈はなかった。否《いや》、そんな気持ちで緊張し切っている源次の顔が、ツイ鼻の先にノシかかっている事すら知らないまま、なおも自分の脳髄が作る眼の前の暗黒の核心を凝視しつつ、底知れぬ戦慄を我慢しいしい、全身を固《こわ》ばらせているのであった。
その福太郎の眼の前には、稍《やや》暫くの間、おなじ暗黒《くらやみ》の光景が連続していた。しかしその暗黒の中に時々、安全燈《ラムプ》の網目を洩れる金茶色の光りがゆるやかに映《さ》したり、又静かに消え失せたりするところをみると、それは福太郎が斜坑の上り口から三十度の斜面へ歩み出した時の記憶の一片が再現したものに違いなかった。その仄《ほの》かな光線に照し出された岩の角々は皆、福太郎の見慣れたものばかりであったから……。
けれども、やがてその金茶色の光りが全く消え失せて、又、もとの暗黒に変ったと思うと間もなく、その暗黒《くらやみ》のはるかはるか向うに、赤い光りがチラリと見えた。
それは福太郎が、炭車《トロッコ》と落盤の間に挟まれる前にチラリと見た赤い光りの印象が再現したものであった。しかもその時は坑口《こうぐち》に沈む夕日の光りではないかと思っただけに、ホントウは何の光りか解らないまま忘れてしまっていたのであったが、現在眼の前に、その刹那の印象が繰返して現われて来たのを見ると、その光りの正体が判然《わか》り過ぎる位アリアリとわかったのであった。
それは連絡を失った四函の炭車《トロッコ》の車輪が、一台八百|斤宛《きんずつ》の重量と、千五百尺の長距離と、三十度近くの急傾斜に駈り立てられて逆行しつつ、三十|哩《マイル》内外の急速度で軌条を摩擦して来る火花の光りに外ならなかった。しかもその車輪の廻転して来る速度は、依然として福太郎の半分麻痺した脳髄の作用に影響されていて、高速度映画と同様にノロノロした、虫の這うような緩やかな速度に変化していたために、それを凝視している福太郎に対して、何ともいえないモノスゴイ恐怖感と、圧迫感とを与えつつ接近して来るのであった。
その炭車《トロッコ》の左右十六個の車輪の一つ一つには、軌条から湧き出す無数の火花が、赤い蛇のように撚《よ》じれ、波打ちつつ巻付いていた。そうして炭車《トロッコ》の左右に迫っている岩壁の褶《ひだ》を、走馬燈《まわりどうろ》のようにユラユラと照しあらわしつつ、厳そかに廻転して来るのであったが、やがてその火の車の行列が、次から次に福太郎の眼の前の曲線《カーブ》の継ぎ目の上に乗りかかって来ると、第一の炭車《トロッコ》が、波打った軌条に押上げられて、心持《こころもち》速度を緩めつつ半分傾きながら通過した。するとその後から押しかかって来た第二の炭車《トロッコ》が、先頭の炭車《トロッコ》に押戻されて、空《くう》を探る蚕《かいこ》のように頭を持上げたが、そのまま前後の炭車《トロッコ》と一緒にユラユラと空中に浮き上って、低い天井と、向う側の岩壁を突崩《つきくず》し突崩し福太郎に迫り近付いて来た。そうして中腰になったまま固くなっている福太郎の胸の上に、濡れた粉炭の堆積をドッサリと投掛けて、一堪《ひとたま》りもなく尻餅を突かせると、その眼の高さの空間を、歪み曲った四ツの炭車《トロッコ》が繋がり合ったまま、魔法の箱のようにフワリフワリと一週して、やがて不等辺三角形に折れ曲った一つの空間を作りつつ、福太郎の身体《からだ》を保護するかのように徐々《しずしず》と地面へ降りて来た。それに連れて半分|粉炭《こなずみ》に埋もれた福太郎の安全燈《ラムプ》が、ポツリポツリと青い光りを放ちつつ、消えもやらずに揺らめいたのであった。
けれどもその安全燈《ラムプ》の光りは、やがて又、赤い煤《すす》っぽい色に変るうちに、次第次第に真暗くなって消え失せてしまったかと思われた。それはこの時福太郎の頭の上から、夥しい石の粉が、黒い綿雪のようにダンダラ模様に重なり合って、フワリフワリと降り始めたからであった。そうしてその黒い綿雪が、福太郎の腰の近くまで降り積って来るうちに、いつの間にか小降りになって、やがてヒッソリと降り止んだと思うと、今度はその後から、天井裏に隠れていた何千貫かわからない巨大《おおき》な硬炭《ボタ》の盤が、鉄工場の器械のようにジワジワと天降《あまくだ》って来て、次第次第に速度を増しつつ、福太郎の頭の上に近付いて来るのが見えた。そうしてやがてその硬炭《ボタ》の平面が、福太郎の前後を取巻く三つの炭車《トロッコ》に乗りかかると、分厚い朝鮮松の板をジワリジワリと折り砕きながらピッタリと停止した……と思うとそのあとから、又も夥しい土の滝が、炭車《トロッコ》の外側に流れ落ちて来たのであろう。山形に浮上った車台の下から、濛々《もうもう》とした土煙がゆるゆると渦巻きながら這込み始めて、安全燈《ラムプ》の光りをスッカリ見えなくしてしまったのであった。
その時に福太郎はチョット気絶して眼を閉じたように思った。けれどもそれは現実世界でいう一瞬間と殆んど同じ程度に感じられた一瞬間で、その次の瞬間に意識を恢復した時に福太郎はヒリヒリと痛む眼を一パイに見開いて、唇をアーンと開いたまま、落盤に蓋をされた炭車《トロッコ》の空隙に、消えもやらぬ安全燈《ラムプ》の光りに照し出されている、自分自身を発見したのであった。同時に、その今までになく明るく見える安全燈《ラムプ》の光明《ひかり》越しに、自分の左右の肩の上から、睫《まつげ》を伝って這い降りてくる、深紅の血の紐《ひも》をウットリと透かして見たのであったが、それが福太郎の眼には何ともいえない美しい、ありがたい気持のものに見えた。しかもその真紅の紐が、無数のゴミを含んでブルブルと震えながら固まりかけているところを見ると、福太郎が気絶したと思った一瞬間は、その実かなり長い時間であったに相違ないが、それでもまだ救いの手は炭車《トロッコ》の周囲《まわり》に近付いていなかったらしく、そこいら中が森閑《しんかん》として息の通わない死の世界のように見えていた。そうしてその中に封じ籠められている福太郎は、自分自身がさながらに生きた彫刻か木乃伊《ミイラ》にでもなったような気持で、何等の感情も神経も動かし得ないまま、いつまでもいつまでも眼を瞠《みは》り、顎を固《こわ》ばらせているばかりであった。
ところがそうした福太郎の眼の前の、死んだような空間が、次第に黄色く明るくなったり、又青白く、薄暗くなったりしつつ、無限の時空をヒッソリと押し流して行ったと思う頃、一方の車輪を空に浮かした右手の炭車《トロッコ》の下から、何やら黒い陰影が二つばかりモゾリモゾリと動き出して来るのが見えた。そうしてそれがやがて蟹《かに》のように醜い、シャチコ張った人間の両手に見えて来ると、その次にはその両手の間から塵埃《ごみ》だらけになった五分刈の頭が、黒い太陽のように静かにゆるぎ現われて来るのであった。
その両手と頭は、炭車《トロッコ》の下で静かに左右に移動しながら、一生懸命に藻掻《もが》いているようであった。そうしてようようの事で青い筋の這入った軍隊のシャツの袖口と※[#「┐」を全角大とした、屋号を示す記号、331−6]《カネ》サの印を入れた半纏《はんてん》の背中が半分ばかり現われると、そのままソロソロと伸び上るようにして反《そ》り返りながら、半分土に埋もれた福太郎の鼻の先に顔をさし付けたのであった。
それは源次の引攣《ひきつ》り歪んだ顔であった。汗と土にまみれた……。
福太郎はしかし身動きは愚か、眼
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