どこじゃろかい。お前の家《うち》じゃないか」
 と云って聞かせたけれども、福太郎はまだ腑に落ちないらしく、そういう朋輩連中の顔をマジリマジリと見まわしていた。そのうちに付き添っていたお作が濡れ手拭で、汗と、血と、泥と、吹っかけられた水に汚れた顔を拭いて遣りながら、メソメソと嬉泣《うれしな》きをし始めたが、それでも福太郎はまだキョトンとした瞳をラムプの光りに据えていたので、背後《うしろ》の方に居た誰かが腹を抱えて笑い出しながら、
「まあだ解らんけえ。おいアノヨ[#「アノヨ」に傍点]の吉公。チョットここへ来て呼んでやらんけえ。汝《われ》が家《うち》だぞオオオ……イヨオオオイ……イイ……という風にナ……」
 と吉三郎の声色を使ったので、皆は鬨《どっ》と吹出してしまった。併《しか》しそれでも福太郎はまだ腑に落ちない顔で口真似をするかのように、
「……アノヨ……アノヨ……」
 と呟いたので皆は死ぬほど笑い転げさせられたという。
 一方に炭坑の事務所から駈付けた人事係長や人事係、棹取《さおとり》、又は坑内の現場係なぞいう連中が、ホンノ一通り立会って現場《げんじょう》を調査したのであったが、その報告に依ると福太郎は帰りを急いだものらしく、迂回した人道を行かずに、禁を犯して斜坑の方へ足を入れた。しかも六時の交代前の十台の炭車《トロッコ》が、まだ斜坑を上り切って終《しま》わないうちに跡を追うようにして、着炭場(斜坑口)から徒歩で上《のぼ》り始めたものであったが、折悪しくその第七番目の鰐口《わにぐち》に刺さっていた鉄棒《ピン》が、ドウした途端《はずみ》か六番目の炭車《トロッコ》の連結機《ケッチン》の環《かん》から外《はず》れたので、四台の炭車《トロッコ》が繋がり合ったまま逆行して来て、丁度、福太郎が足を踏掛けていた曲線《カーブ》の処で、折重なって脱線顛覆したもので、さもなければ福太郎は、側圧で狭くなった坑道の中で、メチャメチャに粉砕されていた筈であったという。
 しかし元来、坑道に敷いてある炭車《トロッコ》の軌条は、非常に粗末な凸凹《でこぼこ》した物なので、連結機《ケッチン》の鉄棒《ピン》が折れたり外れたり、又は索条《ワイヤロープ》が、結目《トックリ》の附根から断《き》れたりする事は余り珍らしくないのであった。ことに最近斜坑の入口で二人の坑夫が遭難してからというもの、危険を虞《おそ》れて炭車《トロッコ》に乗る事を厳禁されていたので、その炭車《トロッコ》に誰かが乗っていて、福太郎が上《あが》って来るのを見かけて故意にケッチンのピンを抜いたろう……なぞいう事は誰一人想像し得る者がなかった。又カンジンの御本尊の福太郎も、烈しい打撃を受けた後の事とて、その炭車《トロッコ》に誰が乗っていたか……なぞいう事はキレイに忘れてしまっていたばかりでなく、自分が何のために、どうして斜坑を歩いていたかすら判然《はっきり》と思い出せなくなっていたので、ヤット気が落ち付いて皆の話が耳に止まるようになると、一も二もなく皆の云う通りの事実を信じて、驚いて、呆れて、茫然となっているばかりであった。
 そんな状態であったから結局、出来事の原因は解らないずくめになってしまって、福太郎の遭難も自業自得といったような事で、万事が平々凡々に解決してしまった。その後《あと》で他所《よそ》から帰って来た炭坑医も、福太郎の疵があんまり軽いのを見て笑い笑い帰って行った位の事だったので、集っていた連中もスッカリ軽い気持になって、ただ無闇《むやみ》と福太郎の運のいいのに驚くばかりであった。そうして揚句《あげく》の果は、
「お前《めえ》があんまり可愛がり過ぎるけんで、福太郎どんが帰りを急ぐとぞい」
 とお作が皆《みんな》から冷やかされる事になったが、流石《さすが》に海千山千のお作もこの時ばかりは受太刀《うけだち》どころか、返事も出来ないまま真赤になって裏口から逃げ出して行った位であった。
 しかしお作はそれでも余程嬉しかったらしい。その足で飯場《はんば》から酒を二升ばかり提《さ》げて来て、取りあえず冷《ひや》のまま茶碗を添えて皆の前に出した。すると又、それに連れて済まないというので、手に手に五合なり一升なり提げて来る者が出て来る。自宅《うち》の惣菜や、乾物《ひもの》の残りを持込んで、七輪を起す女連《おんなづれ》も居るという訳で、何や彼《か》や片付いた十一時過になると福太郎の狭い納屋の中が、時ならぬ酒宴《さかもり》の場面に変って行った。
「小頭どん一つお祝いに……」
「オイ。福ちゃん。あやかるで」
「生命《いのち》の方もじゃが、ま一つの方もなあ。アハハハ……」
 といったような賑やかな挨拶がみるみる室《へや》の中を明るくした。それに連れて後から後から福太郎に盃を持って来る者が多かったが、その中《うち》でも最前から何くれとなく世話を焼いていた仕繰夫《しくり》の源次が、特別に執拗《しつこ》く盃を差し付けたので、元来がイケナイ性質《たち》の福太郎は逃げるのに困ってしまった。
「おらあ酒は飲み切らん飲み切らん」
 の一点張りで押し除《の》けても、
「今日ばっかりは別ですばい」
 と源次が妙に改まってナカナカ後に退《ひ》きそうにない。そこへお作が横合いから割込んで、
「福さんはなあ。親譲りの癖でなあ。酒が這入ると気が荒うなるけん、一口も飲む事はならんチウテ遺言されて御座るげなけになあ。どうぞ源次さん悪う思わんでなあ」
 と散々にあやまったのでヤット源次だけは盃を引いたが、他の者は、その源次へ面当《つらあて》か何ぞのように、無理やりにお作を押し除《の》けてしまった。
「いかんいかん。源公が承知しても俺が承知せん。酒を飲んで気の違う人間は福太郎ばっかりじゃなかろう。親代りの俺が付いとるけに心配すんな」
 とか何とか喚《わめ》き立てながら、口を割るようにして、日陽《ひなた》臭いなおし[#「なおし」に傍点]酒を含ませたので、福太郎は見る見る顔が破裂しそうになるくらい真赤になってしまった。平生《ふだん》から無口なのがイヨイヨ意気地が無くなって盃を逃げ逃げ後退《あとしざ》りをして行くうちに、部屋の隅の押入の半分|開《あ》いた襖《ふすま》の前に横倒しになって、涙ぐんだ眼をマジリマジリと開いたり閉じたりしながら、手を合わせて盃を拝むようになった。
 すると集まった連中は、これで御本尊が酔い倒れたものと思って満足したらしい。盃を押しつけに来る者がヤット無くなって、後は各自《めいめい》勝手に差しつ差されつする。その中にお作がタッタ一人の人気者になって、手取り足取りまん中に引っぱり出されて、八方から盃を差されたり、お酌をさせられたりしていたが、そのうちにいつの間にかお作自身が酔っ払ってしまったらしい。白い脂切《あぶらぎ》った腕を肩までマクリ上げると、黄色い声で相手構わず愛嬌を振り撒きはじめた。
「サア持って来なさい。茶碗でも丼《どんぶり》でも何でもよか」
「アハハハ。お作どんが景気付いたぞい」
「今|啼《な》いた鴉《からす》がモウ笑ろた。ハハハハ」
「ええこの口腐れ。一杯差しなさらんか」
「ようし。そんならこのコップで行こうで」
「まア……イヤラッサナア……冷たい盃や受けんチウタラ」
「ヨウヨウ。久し振りのお作どんじゃい。若い亭主持ってもなかなか衰弱《めげ》んなあ」
「メゲルものかえ。五人や十人……若かりゃ若いほどよか」
「アハハハハ。なんち云うて赤いゆもじ[#「ゆもじ」に傍点]は誰《だ》がためかい」
「知りまっせん。大方|伜《せがれ》と娘のためだっしょ」
「ウワア。こらあ堪らん。福太郎はどこさ行《い》たかい」
「押入《おしこみ》の前で死んだごとなって寝とる」
「アハハ。成る程。死んどる死んどる。ウデ蛸《だこ》の如《ごと》なって死んどる。酒で死ぬ奴あ鰌《どじょう》ばっかりションガイナと来た」
「トロッコの下で死ぬよりよかろ」
「お作どんの下ならなおよかろ」
「ワハハハハ」
「おい。みんな手を借せ手を借せ。はやせはやせ」
 と云ううちに皆《みんな》は、コップを抱えたお作の周囲《まわり》をドヤドヤと取巻いた。そうして嘗《かつ》て、ウドン屋でお作を囃《はや》した時の通りに、手拍子を拍《う》って納屋節を唄い出した。
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「白い湯もじ[#「もじ」に傍点]を島田に結《ゆ》わせエ
赤いゆもじ[#「ゆもじ」に傍点]を買わせた奴はア
どこのドンジョの何奴《どんやつ》かア
ドンヤツドンヤツどんやつかア
ウワア――アアア――」
[#ここで字下げ終わり]
「ようし……」
 とお作は唄が終るか終らぬかに、コップの冷酒をグイと飲み干して立ち上った。
「そんげに妾《あたし》ば冷やかしなさるなら、妾もイッチョ若うなりまっしょ」
 と云ううちに、そこに落ちていた誰かの手拭を拾って姉さん冠《かぶ》りにした。それから手早く前褄《まえづま》を取って、問題の赤ゆもじ[#「ゆもじ」に傍点]を高々とマクリ出したので、皆一斉に鯨波《ときのこえ》を上げて喝采した。
「……道行き道行き……」
 と叫んだ者が二三人あったが、その連中を睨みまわしながらお作は、白い腕を伸ばしてラムプの芯を煤《すす》の出るほど大きくした。
「源次さん。仕繰《しく》りの源次さん……アラ……源次さんはどこい行きなさったとかいな」
 その声が終るか終らないかにモウ一度、割れむばかりの喝采が納屋を揺がしたが、今度は忽ち打切ったようにピッタリと静まり返った。
 皆はこの時お作が、饂飩《うどん》屋時代に得意にしていた道行踊りを踊ろうとしている事を、アラカタ察しているにはいた。併し真逆《まさか》に問題の黒星になっている源次を相手にして踊ろうとは思わなかったのであった。皮肉といおうか大胆といおうか。一度は思わず喝采をしたものの、流石《さすが》の荒くれ男共もこうしたお作のズバリとした思付きに、スッカリ荒胆《あらぎも》を奪《と》られてしまって、その次の瞬間には、水を打ったようにシンとして終《しま》ったのであった。今にも血の雨が降りそうなハッとした予感に打たれて……。
 しかしお作は平気の平左であった。その中央《まんなか》に突立って、アカアカとした洋燈《ラムプ》の光りの中《うち》にトロンとした瞳《め》を据えながら、ウソウソと隅の方の暗い所を覗きまわった。
「……源次さん。出て来なさらんか。マンザラ妾と他人じゃなかろうが」
 皆はイヨイヨ固唾《かたず》を飲んで鎮まりかえった。その中で誰か一人、クスリと笑った者があったが、それが却《かえ》って室《へや》の中の静けさを一層モノスゴク冴え返らせた。
「……嫌《いや》らッサなあ。タッタ今、そこに御座ったとじゃが。小便に行かっしゃったとじゃろか」
 と呟やきながらお作はチョイト表の方の暗がりを振り返った。すると皆も釣り込まれたように、お作と一緒の方向を振り返ったが、外の方には源次らしい咳払いすら聞こえなかった。
 仕繰夫《しくり》の源次は、そうした皆の視線とは正反対の方向に、小さくなって隠れていたのであった。室《へや》の奥の押入の前に立てた、新聞|貼《ばり》の屏風の蔭に、コッソリと跼《うずく》まり込みながら、眼の前で、苦しそうに肩で呼吸《いき》している福太郎の顔を、一心に見守っていた。ツイ今|先刻《さっき》まで、真赤になっていたその顔が、次第次第に青褪めて、眼を見開いた行き倒れのように、気味の悪い、ゲッソリとした表情に変って行くのを、驚き怪しみながら見とれているのであった。

       下

 福太郎は最前から、押入の前に横たおしになったまま、割れるような頭を、両手でシッカリと抱えていた。思わず飲まされ過ぎた直し酒に、スッカリ参ってしまって、暫くの間は呼吸《いき》が出来ないくらい胸が苦しくなっていた。耳の附け根を通る太い血管の鳴る音が、ゾッキリゾッキリと剃刀《かみそり》で削るように聞こえて、眠ろうにも眠られず、起きようにも起きられない苦しさのうちに、ツイゾ今まで思い出した事もない、子供の時分の記憶の断片が、思いがけない野原となったり、眩《まぶ》しい夕焼
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