の球一つ動かす事が出来なかった。自分が死んでいるのか生きているのかすら判断出来ないような超自然的な恐怖に閉じこめられつつ、全身が氷のようにギリギリと引締まって来るのを感じているばかりであった。
 その福太郎の凝固した瞳を、源次はジイッと見入りながら、暫くの間、福太郎と同様に眉一つ動かさずにいた。それからその汗と泥にまみれた赤黒い顔じゅうに、老人のような皺《しわ》をジワジワと浮上らせて、泣くような笑うような表情を続けていたが、やがて歪んだ、薄い唇の間から、黄色い歯を一パイに剥《む》き出すと、たまらなく気持よさそうなニヤニヤした笑いを顔一面に引拡げて行った。そうしてサモ憎々しそうに……同時に如何にも愉快そうに顎を突出しながら、何か云い出したのであった。
 その言葉は全く声の無い言葉であったばかりでなく、非常にユックリした速度で唇が波打ったために、全然、意味を成さない顔面の動きとしか見えなかった。それでも、福太郎にはその言葉の意味が不思議にハッキリと読めたのであった。
「……わかったか……おれは……源次ぞ……わかったか……アハ……アハ……アハ……」
 福太郎はその時にちょっと首肯《うなず》きたいような気持になった。しかし依然として全身が硬直しているために、瞬《またたき》一つ出来なかった。
「……アハ……アハ……わかったか……貴様は……俺に恥掻かせた……ろうが……俺がどげな……人間か知らずに……アハ……」
「……………」
「……それじゃけに……それじゃけに……」
 と云いさして源次は、眼を真白く剥出《むきだ》したまま、ユックリと唇を噛んで、獣《けもの》のようにみっともなく流れ出る涎《よだれ》をゴックリと飲み込んだ。それを見ると福太郎も真似をするかのように唾液《つば》を飲み込みかけたが、下顎が石のように固《こわ》ばっていて、舌の尖端《さき》を動かすことすら出来なかった。
「……それじゃけに……それじゃけに……」
 と源次は又も喘《あえ》ぐように唇を動かした。
「……それじゃけに……引導をば……渡《わた》いてくれたとぞ……貴様を……殺《ころ》いたとは……このオレサマぞ……アハ……アハ……」
「……………」
「……お作は……モウ……俺の物ぞ……あの世から見とれ……俺がお作を……ドウするか……」
「……………」
「……ああハアハア……ザマを……見い……」
 そう云ううちに源次は今一度唇をムックリと閉じた。それから左右の白眼を、魚のようにギラギラ光らせると、泥まみれの両頬をプーッと風船ゴムのように膨らまして、炭の粉《こ》まじりの灰色の痰《たん》を舌の尖端《さき》でネットリと唇の前に押出した。そうしてプーッと吹き散る唾液《つば》の霧と一緒に、福太郎の顔の真正面から吹き付けた。
 その刹那に福太郎は思わず瞬を一つした……ように思ったが……それに連れて全身が俄《にわ》かに堪らなくゾクゾクし始めて、頭の痛みが割れんばかりに高まって来たので、又も両眼を力一パイ見開きながら、モウ一度鼻の先に在る源次の顔をグッと睨み付けた。すると又、それと殆んど同時に福太郎は、自分を凝視している源次のイガ栗頭の背景となっていた、岩の凸凹《でこぼこ》が跡型もなく消え失せて、その代りにラムプにアカアカと照らされた自分の家《うち》の新しい松板天井が見えているのに気が付いた。そうしてその憎しみに充ち満ちた源次の顔の上下左右から、ラムプの逆光線を同じように受けた男女の顔が幾個《いくつ》も幾個も重なり現われて、心配そうに自分の顔を見守っている視線をハッキリと認めたのであった。
 ……その瞬間であった。
 ただならぬ人声のドヨメキが自分の周囲に起ったので、福太郎はハッと吾に返った。
 見ると眼の前には※[#「┐」を全角大とした、屋号を示す記号、334−2]《カネ》サの半纏を着た源次が俯伏せになっていて、ザクロのように打ち破《わ》られたイガ栗頭の横腹から、シミジミと泌み出す鮮血の流れが、ラムプの光りを吸取りながらズンズンと畳の上に匐《は》い拡がっているのであった。
 左右を見廻すと近くに居た連中は皆《みんな》、八方へ飛退《とびの》いた姿勢のまま真青な顔を引釣らして福太郎の顔を見上げていたが、中には二三人、顔や手足に血飛沫《ちしぶき》を浴びている者も居た。
 福太郎は茫然となったまま稍《やや》暫らくの間そんな光景を見廻していたが、やがてその源次の枕元に立ちはだかっている自分自身の姿を、不思議そうに振り返った。
 見ると両腕はもとより、白い浴衣の胸から肩へかけてベットリと返り血を浴びていて、顔にも一面に飛沫《しぶき》が掛っているらしい気もちがした。そうしてその右手には、いつの間に取出したものか、背後《うしろ》の押入の大工道具の中《うち》でも一番|大切《だいじ》にしている「山吉《やまきち》」製の
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