底の暗黒にスッカリ慣れ切って、自分の生れ故郷みたような懐かし味をさえ感じていたばかりでなく、生れ付き頭が悪いせいか、かなり危険な目に会っても無神経と同様で、滅多に感傷的な気持になった事はないのであった。
 ところが去年の暮近くになって女房というものを持ってからというものは、何となく身体《からだ》の工合が変テコになって、シンが弱ったように思われて来るに連れて、色んな詰《つま》らない事が気にかかり始めたのを、頭の悪いなりにウスウス意識していた。ことにこの時は一|番方《ばんかた》から二番方まで、十八時間ブッ通しの仕事を押付けられて、特別に疲れていたせいであったろう。頭が妙に冴えて来て、何ともいえない気味の悪さが、上下左右の闇の中から自分に迫って来るように思われて仕様がなくなったのであった。
 ……俺も遠からず、あんげなタヨリない声で呼ばれる事になりはせんか……。
 ……ツイ今しがた仕繰夫《しくり》(坑内の大工)の源次を載せて、眼の前の斜坑口《しゃこうぐち》を上って行った六時の交代前の炭車《トロッコ》が索条《ロープ》でも断《き》れて逆行《ひっかえ》して来はせんか……。
 ……それとも頭の上の硬炭《ボタ》が今にも落て来はせんか……。
 といったようなイヤな予感に次から次に襲われ始めると同時に、それが疑いもない事実のように思われ出して、吾知らず安全燈《ラムプ》の薄明りの中に立ち竦《すく》んでしまったのであった。
 すると、そうした不吉な予感の渦巻の中心に何よりも先に浮かんだのは、女房のお作《さく》の白い顔であった。
 お作というのは福太郎よりも四ツ五ツ年上であったが、まだ何も知らなかった好人物《おひとよし》の福太郎に、初めてにんげんの道[#「にんげんの道」に傍点]を教えたお蔭で、今では福太郎から天にも地にも懸け換えのないタッタ一人の女神様のように思われている女であった……だからその母親か姉さんのようになつかしい……又はスバラシイ妖精《ばけもの》ではないかと思われるくらい婀娜《あだ》っぽいお作の白々と襟化粧《えりげしょう》をした丸顔が、モウ二度と会われない幽霊か何ぞのようにニコニコと笑いながら、ツイ鼻の先の暗黒《くらやみ》の中に浮かみ現われた時に、福太郎は思わずヨロヨロと前にノメリ出しそうになった。そうして初めてお作に会った時からの色々な曰《いわ》く因縁の数々を思い出しながら、今更のようにホッと溜息をするのであった。
 お作は元来福太郎の方から思いかけた女ではなかった。ちょうど福太郎がこの山に来た時分に、下の町の饂飩《うどん》屋に住み込んだ流れ渡りの白ゆもじ[#「白ゆもじ」に傍点]で、その丸ボチャの極度に肉感的な身体《からだ》つきと、持って生れた押しの太さとで、色々な男を手玉に取って来たものであったが、その中でも仕繰夫《しくり》の指導係《サキヤマ》をやっているチャンチャンの源次という独身《ひとりもの》の中年男が、仲間から笑われる位打ち込んで、有らん限り入揚《いれあ》げたのを、お作は絞られるだけ絞り上げた揚句《あげく》にアッサリと突放して見向きもしなくなった。……というのはこれが縁というものであったろうか、その頃から時々饂飩を喰いに来るだけで、酒なぞ一度も飲んだ事のない福太郎のオズオズした坊ちゃんじみた風付《ふうつ》きに、お作の方から人知れず打ち込んでいたものらしい。去年の冬の初めに饂飩屋から暇を取るとそのまま、貯金の通帳と一緒に、福太郎の自炊している小頭《こがしら》用の納屋に転がり込んで、無理からの押掛《おしかけ》女房になってしまったのであった。
 その時には流石《さすが》に鈍感な福太郎もすくなからず面喰らわせられた。何もかも心得ているお作の前にかしこまって、赤ん坊のようにオドオドするばかりであったが、それでもどうしていいか解からないまま五日十日と経って行くうちに、福太郎はいつの間にか、お作の白い顔を見に帰るべく仕事の仕上《きりあ》げを急ぐようになっていた。毎朝起きて見ると、自炊時代と打って変って家《うち》の中がサッパリと片付いている枕元に、キチンと食事の用意が出来ているのが、勿体ないくらい嬉しかったばかりでなく、夕方疲れてトボトボとうなだれて帰って来る坑夫納屋の薄暗がりの中に、自分の家だけがアカアカとラムプが点《つ》いているのを見ると、有り難いとも何とも云いようのない思いで胸が一パイになって、涙が出そうになる位であった。しかもそれと同時に翌る朝四時から起きて、一番方の炭坑入りをしなければならぬ事を思い出すと、タマラナイ不愉快な気持に満たされて、又も力なくうなだれさせられる福太郎であった。
 こうして単純な福太郎の心は、物の半月も経たない中《うち》にグングンと地底の暗黒から引き離されて行った。そうしてこんな炭山《やま》の中には珍らしいお作の
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