た。そうして虫の這うよりもモット、ユックリと……殆んど止まっているか、動いているかわからない位の速度で、唇の下の方へ匍《は》い降りて行く。そうして唇の下縁《したふち》の深い、痛々しい陰影の前まで来ると、そこでちょっと停滞して、次第次第にまん円《まる》い水滴の形にふくれ上って行くと同時に、仄暗《ほのぐら》い安全燈《ラムプ》の光りを白々と、小さく、鋭く反射し初める。そうして完全なマン円い水滴の形になると、さながら、空中に浮いた満月のように、ゆるやかに廻転しながら、垂直の空間をしずかに、しずかに、下へ下へと降り初める。その速度が次第に早くなって、やがて坑道の左右に掘った浅い溝の陰影の中に、一際《ひときわ》強い七色《スペクトル》光を放ちながら、依然として満月のように廻転しつつ、ゆっくりゆっくりと沈み込んで行く……と思うとそのあとから追っかけるように、またも一粒の真黒い、マン円い水滴が岩の唇を離れて、しずかに輝やきながら空間に懸かっている。
 ……そのモノスゴサ……気味わるさ……。
 福太郎の両眼は、いつの間にか真白になるほど剥《む》き出されていた。その唇はダラリと垂れ開いて、その奥にグルリと捲き上った舌の尖端には、腸《はらわた》の底から湧き上って来る不可思議な戦慄が微かに戦《おのの》きふるえていた。
 その時にお作がアノヨの吉[#「アノヨの吉」に傍点]と一緒に踊り出した。道行を喝采するドヨメキが納屋の中一パイに爆発した。
 それを聞くと源次は、思わずハッとしたように、屏風の蔭から部屋の中をさし覗いたが、そのまま又も引付けられるように福太郎の顔を振り向いて半身を傾けた。赤黄色いラムプの片明りの中に刻一刻と蒼白く、痛々しく引攣《ひきつ》れて行く福太郎の顔面表情を、息を殺して、胸をドキドキさせながら凝視していた。
「……此奴《こいつ》はホントウに死によるのじゃないか知らん、……頭の疵が案外深いのを、医者が見損のうとるのじゃないか知らん……死んでくれるとええが……」
 と思い続けながら……。
 しかし福太郎はむろん、源次のそうした思惑に気付く筈はなかった。否《いや》、そんな気持ちで緊張し切っている源次の顔が、ツイ鼻の先にノシかかっている事すら知らないまま、なおも自分の脳髄が作る眼の前の暗黒の核心を凝視しつつ、底知れぬ戦慄を我慢しいしい、全身を固《こわ》ばらせているのであった。
 その福太郎の眼の前には、稍《やや》暫くの間、おなじ暗黒《くらやみ》の光景が連続していた。しかしその暗黒の中に時々、安全燈《ラムプ》の網目を洩れる金茶色の光りがゆるやかに映《さ》したり、又静かに消え失せたりするところをみると、それは福太郎が斜坑の上り口から三十度の斜面へ歩み出した時の記憶の一片が再現したものに違いなかった。その仄《ほの》かな光線に照し出された岩の角々は皆、福太郎の見慣れたものばかりであったから……。
 けれども、やがてその金茶色の光りが全く消え失せて、又、もとの暗黒に変ったと思うと間もなく、その暗黒《くらやみ》のはるかはるか向うに、赤い光りがチラリと見えた。
 それは福太郎が、炭車《トロッコ》と落盤の間に挟まれる前にチラリと見た赤い光りの印象が再現したものであった。しかもその時は坑口《こうぐち》に沈む夕日の光りではないかと思っただけに、ホントウは何の光りか解らないまま忘れてしまっていたのであったが、現在眼の前に、その刹那の印象が繰返して現われて来たのを見ると、その光りの正体が判然《わか》り過ぎる位アリアリとわかったのであった。
 それは連絡を失った四函の炭車《トロッコ》の車輪が、一台八百|斤宛《きんずつ》の重量と、千五百尺の長距離と、三十度近くの急傾斜に駈り立てられて逆行しつつ、三十|哩《マイル》内外の急速度で軌条を摩擦して来る火花の光りに外ならなかった。しかもその車輪の廻転して来る速度は、依然として福太郎の半分麻痺した脳髄の作用に影響されていて、高速度映画と同様にノロノロした、虫の這うような緩やかな速度に変化していたために、それを凝視している福太郎に対して、何ともいえないモノスゴイ恐怖感と、圧迫感とを与えつつ接近して来るのであった。
 その炭車《トロッコ》の左右十六個の車輪の一つ一つには、軌条から湧き出す無数の火花が、赤い蛇のように撚《よ》じれ、波打ちつつ巻付いていた。そうして炭車《トロッコ》の左右に迫っている岩壁の褶《ひだ》を、走馬燈《まわりどうろ》のようにユラユラと照しあらわしつつ、厳そかに廻転して来るのであったが、やがてその火の車の行列が、次から次に福太郎の眼の前の曲線《カーブ》の継ぎ目の上に乗りかかって来ると、第一の炭車《トロッコ》が、波打った軌条に押上げられて、心持《こころもち》速度を緩めつつ半分傾きながら通過した。するとその後から押しかかっ
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