《のち》というものは、福太郎に出会うたんびにヒョコヒョコと頭を下げて、抜目なく機嫌を取ろう機嫌を取ろうとする素振りを見せ始めたのであった。
 すると又そうした源次の態度が眼に付いて来るにつれて、他の者はなおの事、源次の気持を疑うようになった。……今に見てろ、源次が遣るぞ。福太郎とお作に何か仕かけるぞ……といったような炭坑地方特有の、一種の残忍さを含んだ興味を持って見るようになったものであるが、しかもそのさ中にカンジンの福太郎夫婦だけは、そんな事を一向に問題にもしていない模様だったので、一層、皆の者の目を瞠《みは》らせたのであった。お人好しの福太郎は源次に対しても、他の者と同様に何のコダワリもないニコニコ顔を見せる一方に、お作は又お作で、
「あの腰抜けの源次に何が出来ようかい」
 と云わぬ半分の大ザッパな調子でタカを括《くく》っているらしかった。今までの白ゆもじ[#「ゆもじ」に傍点]を燃え立つような赤ゆもじ[#「ゆもじ」に傍点]に改良したり、饂飩《うどん》屋にいた時分の通りの真白な襟化粧を復活させたりするばかりでなく、その襟化粧と赤ゆもじ[#「ゆもじ」に傍点]で毎日毎日福太郎の帰りを途中まで出迎えに行き始める。一方には坑長の住宅の新築祝いに手伝いに行ってから以来《このかた》、若い二度目の奥さんに取り入って、恰《あだか》も源次の勢力に対抗するかのようにチョイチョイ御機嫌伺いに行っては、坑長の着古しの襯衣《シャツ》や古靴なぞを福太郎に貰って来てやったりなぞ、これ見よがしに福太郎を大切にかけて見せたので、炭坑中の取沙汰はイヨイヨ緊張して行くばかりであった。
 福太郎は斜坑の入口で、自分の手に提《さ》げた安全燈《ラムプ》の光りの中に突立ったまま、そんな取沙汰や思い出の数々を、次から次に思い出すともなく思い出していた。しかもその中《うち》でも源次に関係した事ばっかりは今の今まで……自分のせいじゃない……といったような気もちから一度も気にかけた事はないのであったが、この時に限ってアリアリと眼の前に浮かみ出て来るお作の白い顔と一緒に、そんな忠告をしてくれた連中の眼付きや口付きを思い出してみると、そんな評判や取沙汰が妙に事実らしく考えられて来るのであった。
 その当の相手の源次は、タッタ今上って行った十台ばかりの炭車《トロッコ》の真中あたりの新しい空函《あきばこ》の中に、低い天井の岩壁から反射する薄明りの中を、頭を打たない用心らしく、背中を丸くして突伏したまま揺られて行った。着ている印半纏《しるしばんてん》の背印は平常《いつも》の※[#「┐」を全角大とした、屋号を示す記号、312−16]《カネ》サとは違っていたけれども、その半纏の腋の下の破れ目から見えた軍隊用の青い筋の這入った襯衣《シャツ》と、光るほど刈り込んだ五分刈頭の恰好が、源次のうしろ姿に間違いないのであった。しかもソンナ風に頭を抱えて小さくなった源次のうしろ姿を今一度、お作の白い顔と並べて思い出した福太郎は、怖ろしいというよりも寧《むし》ろ、何だか済まないような……源次に怨まれるのは当然《あたりまえ》のような気がして仕様がなくなった。源次の姿を吸い込んで行った斜坑の暗黒《くらやみ》に向って、人知れずソッと頭を下げてみたいようなタヨリない気持にさえなったのであった。
 しかし福太郎は間もなくそんな思出や、感傷的な気持の一切合財が、クラ暗の中で冴え返って行く自分の神経作用でしかないようにも思われて来たので、そんな馬鹿げた妄想の全部を打切るべく頭を強く左右に振った。するとその拍子に左手に提げている安全燈《ラムプ》の光りがクルクルと廻転するに連れて、今度は眼の前の岩壁の凸凹《でこぼこ》が、どこやら痩せこけた源次の顔に似ているように思われて来た。しかも誰かに打ち殺された無念の形相《ぎょうそう》か何ぞのように、ジッと眼を顰《しか》めていて、一文字に噛み締めている岩の唇の間から流れしたたる水滴が、血でも吐いているかのように陰惨な黒光りをしているのに気が付いた。
 ところが、その黒い水の滴《した》たりを見ると福太郎は又、別の事を思い出させられて、吾《われ》知らず身ぶるいをさせられたのであった。
 その岩の間から洩れる水滴が、奇怪にも摂氏六十度ぐらいの温度を保っている事を、福太郎はズット前から聞いて知っていた。それはその岩の割目の、奥の奥の深い処に在る炭層の隙間に、この間の大爆発の名残りの火が燃えていて、その水の通過する地盤をあたためているせいである……而《しか》も炭坑側ではそれを手の附けようがないままに放《ほ》ったらかして、構わずに坑夫を入れているのであるが、そのうちにだんだんとその火熱が高くなって来る一方に坑内の瓦斯《ガス》が充満して来たら、又も必然的に爆発するであろう事が今からチャンと解り切ってい
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