者はその時に笑って「スッカリ捨ててしまった時が拾い上げた時だ。しかし捨て切れるものじゃない。捨てても捨てても捨て切れないものが残ったまま一生を終るのが落ちだろう……」と笑ったことがある。それが実さんのヤハリ十七、八の時だ。
 ところがこの頃、実さんに会って話しているうちに、「一声ってものは引っ張り加減がわからないので困るね」と言ったら、実さんはあの大眼玉をギョロ付かせて「一声はやさしいよ。次第が一番六カしい」と言った。それから間もなく或る人に次第を稽古しているのを聞いたら、何よりも先にそのモノスゴイ大きさの中から感ぜられる底知れぬ妖気に驚かされた。修羅道で敵手を喪った大将軍が、血刀を提げてクラ暗の中を見まわしているような悽愴たる感じが一パイに籠っていた。むろん曲柄とは全然合わない感じであったが、実さん自身は「こうしか謡えない」という顔をしていた。
 実さんの中には芝居気もあればアテ気もある。お能気分はむろん充満している。しかし実さんはそんなものを皆タタキ殺して、その上に存在する絶対永久の虚無と闘っているのだ。うしろを振り向かずに前進しているのだ。しかもその虚無はあらゆる哲学、宗教、道徳、芸術の行き止まりに存在するものでなければならぬ。一切の机上の空論、中途半端な観念が何等の用もなさぬ真実の無間地獄……と聞いてはいるが、まだ実際に見た事はない。しかも実さんの舞台上の妖気は如実に、そうした虚無世界の存在を証明している……否……その意味で見なければ実さんの能は何等の価値をもあらわさないのだ。
 南無阿弥陀仏と言いたくなるその妖気……その虚無世界……その中にさまよう実さんの芸的ルンペンぶり。
 実さんは嘗て、いろいろな人の芸風を評した後にコンナ事を言った事がある。「アトに印象の残る能は能とは言えないね」と……これは一切の芸術界に対してこの上もなく不遜※[#「にんべん+濳のつくり」、450−上−6]越な反逆的言辞とも思われようが、しかし筆者は思わず頭を下げたのであった。万古の真理と思ったからである。そうして付け加えた。「能はそうした表現を生み出すために存在しているのだね」と。敢えてここに記して置く。
 これを要するに実さんの芸は下手である。下手も下手、この上に洗練しようのない下手である。どうにも救いようのないルンペン的下手である。だから六平太先生も、あまり実さんには苦情を言われないのじゃないかと思う。
 どうです実さん。ここいらで成仏してくれませんか。たまらないオイシイ能を見せてくれませんか。オムレツの焼き立てのような……タッタ一度でもいいです。



底本:「夢野久作全集7」三一書房
   1970(昭和45)年1月31日第1版第1刷発行
   1992(平成4)年2月29日第1版第12刷発行
初出:「喜多」
   1932(昭和7)年9月
入力:川山隆
校正:土屋隆
2007年7月21日作成
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