、十五の年に六平太先生の道成寺の鐘を引いた一事でもわかる。ホントか嘘か知らないが、他人に聞かれた時の用心に楽の中の拍子の数を数えたと言う話である。これなんかは一方から見たら馬鹿馬鹿しい話かも知れないが、とにかく万事がそんな風で、どこまで研究が行き届いているのか、吾々素人には見当が付かない。そうしてその上にその上にと自分の尻ベタに鞭打っている。家元としてコレ位出来ていればまず……なんて考え方は毛頭ない。しかも実さんの舞台上の妖気はそこから生まれて来るのだ。
実さんは「僕から能を除けばゼロだ。今に能では喰えなくなる時代が来たとしても仕方がない。ほかの事はやる気がしないからね」と淋しそうに言う。しかも内心は安心し切っているらしいので、死ぬまで謡いそうな決心がほの見える。そこに実さんの舞台上の妖気が生まれる第一の根本原因がある。
そんな気持だから実さんは毎日毎日寝ても醒めても自分の尻をタタイて、能の世界の奥へ奥へと盲進していなければ生きていられない。その結果、見物の批評とか、家元としての資格とか言ったような、世間的、もしくは人間的な研究の対照標準をトックの昔に超越してしまっている。そうしてこの頃では芸術とか非芸術とか言ったような相対的な批判区域までも一気に駈け抜けて、一望漠々たる砂漠を息のあらん限り走っては倒れ、倒れてはよろめき走りしているように見える。甚だ想像を逞しくした言い現わし方であるが、実さんの芸を見ているとソンナ気がするから仕方がない。実さんが舞台上に発散する妖気のあらわれは、そうした心境の奥の奥からほのめき出る痛々しい感じを多分に含んでいるのだ。
実さんは自分の一刹那の気持を分析する力が極めて強い。サシの型一つを練習するのに何十遍となくサシてみても、そのサシが純粋にならないと、忽ち両脚を踏みはだけて、両手を肩の処から振り千切るように振りまわす。それから又繰り返してサシてみても息が切れて、汗が出るばかりでうまく行かない。トウトウ悲鳴をあげて「誰か背後から突き飛ばしてくれ」と叫んだりする。それが十六、七の時代のことである。毎晩袴を穿いて、扇を抱いて寝ていてハッと眼をさますと、すぐに舞台に飛び上ったのもその頃の事だ。だから今でも実さんが舞台に立つと臓腑がキリキリと巻き締まって、毛穴がピッタリと閉じるのが眼に見えるように思う。血の気がなくなって、奥歯がギューと締まって夏も冬もわからなくなる……それが実さんの妖気の正体だ。能ではない。芸術でもない。悽愴たる鍛練の妖気だ。抜いただけで人が斬りたくなる剛鉄の妖気だ。
こうした性格の反映として実さんは非常に大先生の言葉を気にする。素人評を問題にもする。甚だ矛盾しているようであるが、実はチットモ矛盾していない。吾々から見ると何でもない事を飽くまで突張ったり、考えたりして持ち悩む。しかしそうしていろいろと分析して成る程というドン底がわかると、アトはケロリとして忘れてしまっている。つまり非常に欲が深いからで、一物も余さず分析しつくさねば止まぬ。一物も余さず分析しつくして見せる……という確信を持ってかかっているのだから、恐ろしい。その恐ろしさが、やはり舞台面の妖気となって随所に発散している。化学分析に伴う異臭と同様に精神分析の異臭が、実さんの舞台表現となって発散するのだ。硫酸か塩酸のようにスゴイ……。
だから実さんの恃むところは唯一つ「不退転の勇気」そのものである。鉄壁でも切りまくる。骨が舎利になっても前進する。そうしなければ一刻も生きていられないからだ。……昨日の成功は今日の不満になっている。讃められた演《や》り方は二度とやらない。わかったらそれ以上のどうしていいかわからない処まで突き抜けて来なければ安心出来ない。或る時は口に凝り、或る時は扇に凝る。どうしていいかわからないから結局そんな事になるのだ。馬鹿も承知。キチガイも合点。決勝点なんか無論ない。お前は何処へ行くと聞かれても、何故そんなに走ると問われても、無論返事は出来ない。
かくして人間世界の戦場は通り越して、他人は勿論のこと自分でもわからない暗黒世界にグングン斬り込み斬り込んで行く。そのうちに夜が明けたら外に誰もいない。自分が相手だったことがわかるかも知れないが、その夜がナカナカ明けない。業劫以前から尽未来際に亙る虚無世界だから。だから実さんのハコビがあらわす妖気には、そうした虚無と暗黒のほのめきが深い。
自己分析の強い人間は自然ニヒリストになる。だから実さんは、自己の代りに能を否定し尽していると言える。同時に自己をドン底まで能として肯定すべく、自己芸風のすべてを破壊すべく努力している能楽界の闘士と言える。「僕は何もかもぶち壊してウッチャッてしまうんだ。その代りに拾い上げる時は何もかも一時だよ」と嘗て筆者に言った事がある。筆
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