オイ別嬪《べっぴん》さん。一寸《ちょっと》来てくれ。註文があるんだ。……私は失礼してお酒をいただきます。……イヤ……全く、こんな贅沢な真似が出来るのも、日本軍が居て秩序を保って下さるお蔭です。室《へや》が小さいのでペーチカがよく利きますね……サ……帽子をお取り下さい。どうか御ゆっくり願います。
 実を申しますと私はツイ一週間ばかり前に、あの日本軍の兵站《へいたん》部の門前で、あなたをお見かけした時から、ゼヒトモ一度ゆっくりとお話ししたいと思っておりましたのです。あなたがあの兵站部の門を出て、このスウェツランスカヤへ買い物にお出《い》でになるお姿を拝見するたんびに、これはきっと日本でも身分のあるお方が、軍人になっておられるのだな……と直感しましたのです。イヤイヤ決してオベッカを云うのではありませぬ……のみならず、失礼とは思いましたが、その後《のち》だんだんと気をつけておりますと、貴下《あなた》の露西亜《ロシア》語が外国人とは思われぬ位お上手なことと、露西亜《ロシア》人に対して特別に御親切なことがわかりましたので……しかもそれは、貴下《あなた》が吾々同胞《わたくしたち》の気風《きもち》に対して特別に深い、行き届いた理解力を持っておいでになるのに原因していることが、ハッキリと私に首肯《うなず》かれましたので、是非ともこの話を聞いて頂く事に決心してしまったのです。否、あなたよりほかにこのお話を理解して、私の運命を決定して下さるお方は無いと思い込んでしまったのです。
 さよう……只きいて下されば、いいのです。そうして私がこれからお話しする恐しい「死後の恋」というものが、実際にあり得ることを認めて下されば宜しいのです。そうすればそのお礼として、失礼で御座いますが、私の全財産を捧げさして頂きたいと考えておるのです。それは大抵の貴族が眼を眩《ま》わすくらいのお金に価するもので、私の生命にも換えられぬ貴重品なのですが、このお話の真実性を認めて、私の運命を決定して下さるお礼のためには、決して多過ぎると思いません。惜しいとも思いませぬ。それほどに私を支配している「死後の恋」の運命は崇高と、深刻と、奇怪とを極めているのです。
 少々前置が長くなりますが、註文が参ります間、御辛棒《ごしんぼう》下さいませんか……ハラショ……。
 私がこの話をして聞かせた人はかなりの多数に上っております。同胞の
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