哲也は又かねてから音絵をねらっていた。
 歌寿が病気になってからもしきりにやって来て親切ぶりを見せ、音絵と出会うのを楽しみにしていた。
 音絵はいつも哲也の顔を見るとすぐに逃げ帰った。
 哲也の思いは弥々《いよいよ》増した。とうとう我慢し切れなくなって父親の鉄平に「是非音絵を貰って下さい」とせがんだ。
 鉄平は「まあ学校から先に卒業しろ」とはね付けた。

     ―― 3 ――

 ある日、丸山養策が往診の留守中の事であった。
 大きな空色の眼鏡をかけた、見すぼらしい青年が杖で探り探り丸山家の表玄関に這入《はい》って来て尺八を吹き初めた。
 音絵は聞き惚れた。青年が帰ろうとすると女中に云い付けお金を遣って引き止めた。
 表門から俥《くるま》に乗った養策が帰って来てこの青年を見ると懐中から金を遣って立ち去らせた。
 出迎えた音絵は今の乞食青年が世に珍しい尺八の名手である事を父に告げた。「あのまま乞食をさせておくのは、ほんとに惜しい事」とまで云った。
 養策はすぐに女中に命じて乞食青年を呼び返させて、勝手口にまわして茶を与えて、自身に親しく身の上を問い訊《ただ》した。
 青年は赤面して再三辞退したが遂に竹林武丸《たけばやしたけまる》と名乗った。
「父は尺八、母は琴の名手であったが十九の年に死に別れ、自身も盲目《めくら》となってこの姿」と涙を押し拭うた。
 養策は憐れを催おした。その眼を一度|診《み》てやるから明日《あす》改めて出て来いと十円の金を与えた。
 武丸は土間にひれ伏して涙にむせんだ。

     ―― 4 ――

 翌朝武丸は質素な身なりを整えて来た。
 養策はその眼を診察して「これは梅毒から来たものだ。家伝の秘法にかけたら治るかも知れぬから毎日通ってみろ」と云った。
 武丸は喜び且つ感謝した。そうして「どなたか存じませぬがお宅においでになる尺八のお好きな方に、お礼のため、毎日尺八を一曲|宛《ずつ》吹いてお聴かせ申したい」と云った。
 養策は苦笑した。「実は自分の亡くなった妻が好きだったので尺八を吹くものが来ると引き止める事にしているのだ」と胡麻化《ごまか》した。
「それではその御霊前で吹かして頂けますまいか」と思い込んだ体《てい》で武丸が云うので養策はしかたなしに武丸を仏間に案内した。
 武丸はそれから毎日診察に来る度毎《たびごと》に仏前に来て、名曲や難曲を一つ宛吹いて行った。
 音絵は毎日蔭から聴き惚れていた。その中《うち》に心の奥底まで武丸の妙技に魅入られて来た。

     ―― 5 ――

 大学生の赤島哲也は遊蕩三昧《ゆうとうざんまい》をするようになった。
 以前、赤島家の書生であった警察署長の津留木万吾《つるきまんご》は忠義立てに哲也を捕まえて手強く諫言《かんげん》すると「音絵を貰ってくれぬから自暴糞《やけくそ》になったんだ」という返事であった。
 津留木は飲み込んで父の鉄平にこの旨を談判した。
 鉄平は「じゃ君に任せよう」と淋しく笑った。
 津留木は平服で丸山家を訪れた。
 養策が会ってみると「音絵を哲也の嫁に」という相談であった。
 養策は「親戚とも相談したいから」と返事を待ってもらった。
 署長は養策に送られて玄関まで来ると「どうぞ御都合のいい御返事をお待ちしております」と繰り返して云った。
 竹林武丸が外に立ってきいていた。
 引き返して来た養策は奥の間に音絵を呼んで「良縁と思うがどうだ」ときいた。
 音絵は「お言葉に反《そむ》きたくはありませんがあの方ばかりは」と断った。
 養策はすこし不機嫌で「それでは外に考えでもあるのか」と問うた。
 音絵は「考えさして下さい」と逃げた。

     ―― 6 ――

 この頃から巧妙な窃盗が横行して所の警察を悩まし初めた。その賊は頗《すこぶ》る大胆でどこへ這入るにも空色の眼鏡をかけているという事が新聞に出た。
 音絵はその新聞を見ると武丸の眼鏡を思い出して怪しく胸が騒いだ。しかし真逆《まさか》と思いつつ幾日か過した。

     ―― 7 ――

 赤島家に賊が這入って大金を奪い、且つ名器「玉山《ぎょくざん》」を掠《かす》め去った事が新聞に洩れて仰々しく書き立てられた。
 津留木署長は青眼鏡の賊の捜索を担任している戸塚警部に全力を挙げるべく命じた。

     ―― 8 ――

 或る日武丸の眼を診察した養策は「もういくらか見えはせぬか」と問うた。
 武丸は淋しく笑って頭を振った。
 養策は妙な顔をした。
 武丸はそのまま丸山家の仏間に案内された。
 仏壇にお茶を上げに来た音絵はあやまって茶碗を武丸の前に取り落した。
 武丸は思わず身を退《ひ》いて転がりかけた茶碗を起したがハッと気が付いて微笑しつつ音絵の顔を見上げた。
 武丸の活《い》き活きした眼と眼
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