て夜が明けたらすぐに打て」と命じて多額の口止め金を与えた。
 宿屋にも充分の心付けをして「当分娘と共に厄介になるから」と最上等の室《へや》へ案内させた。
 室に通ると音絵は武丸に「又父に会われましょうか」と問うた。
 武丸は自分の胸を打って事もなげに微笑した。
 音絵は元気が出て久し振り湯に入った。

     ―― 16[#「16」は縦中横] ――

 音絵の家は大騒ぎになった。狂気のような養策、泣き伏す看護婦、警察の人々、親類縁者、近所の人々、診察に来る患者などがゴッタ返した。
 戸塚警部は音絵の手筥に秘められた琴の爪が一つ足りない事と、その下に敷いてある新聞に「青眼鏡の賊」の記事が載っている事を発見して腕を組んだ。それから間もなく家の外まわりの土塀の蔭に落ちている紙包みを拾って見ると、中から不足している琴の爪を発見した。手筥の指紋、賊の足跡等が次から次へ調べられた。
 戸塚警部は養策に琴の爪を示して一つ離れている理由《わけ》を問うた。
 養策は空しく頭を振った。
 戸塚警部は歌寿を訪うて同じように琴の爪を示した。
 歌寿は渡された爪を手で探って見て「これは私がお嬢様に差し上げたもの」と云った。
 戸塚警部はうなずいた。「それではそのお嬢様に秘密の愛人がある事を聴かなかったか」ときいた。
 歌寿は屹《きっ》となった。「隠し男を持つようなお嬢様ではありません」と云った。
 戸塚警部は首をひねって去った。
 その立ち去る足音を聞き澄ました歌寿は裏表の戸締りを厳重にして、寝床の下から札の束の包みを出し火鉢に入れて焼き初めた。涙が止め度なく流れた。
 歌寿の弟子で養策の治療を受けている一人の男が、音絵の失踪を知らせに来たが、表戸が閉まって中から煙が洩れて来るのでいよいよ驚いて表戸をたたき離して飛び込んで来た。
 見ると火鉢の中で札の束が燻《くすぶ》っているので仰天して、抓《つま》み出そうとして焼けどをした。
 歌寿は烈しく咽《むせ》び入った。

     ―― 17[#「17」は縦中横] ――

 温泉宿鶴屋を出た自動車の運転手は帰る途中で泥酔して人を轢《ひ》いた。警察に引っぱられて調べられると一切を白状して武丸からことづかった電報を見せた。
 戸塚警部とその部下を載せた自動車が間もなく警察の門を出た。雪を衝《つ》いて暁の野をヒタ走りに鶴屋の門前に乗り付けた。武丸と音絵はしかしもう居なかった。
 戸塚警部はすぐにそこの警察に駈け付けて助力を乞い、二手に別れて雪の国道に自動車を馳せた。
 戸塚警部の自動車は山道にかかった。
 はるかの岨道《ほそみち》を乞食|体《てい》の盲目《めくら》の男と手引《てびき》女が行くのが見えた。自動車は追い迫った。
 乞食夫婦が道の傍《かたわら》に避けると自動車はピタリと止った。中から戸塚警部が現われて乞食男の青い眼鏡を奪った。
 二人は睨み合った。
 女のうしろから近寄った一人の刑事が、女を不意に雪の中に引きずりたおした。
 男は唇を噛んだ。突然懐中から拳銃《ピストル》を出して一発の下に女を射ちたおした。自分も自殺しようとした。
 戸塚警部はその拳銃《ピストル》をたたき落して組み付いた。
 男は警部を投げ付けておいて崖の上から身を躍らした。
 戸塚警部が崖の下に駈け付けた時にはもう人影はなかった。しかし草の葉に数滴の血のしたたりと、雪の上を林の奥へ続いた足跡が残っていた。
 戸塚警部はあとを逐《お》うた。

     ―― 18[#「18」は縦中横] ――

 その夜頭に繃帯をした武丸は歌寿の家の前に立って「鶴の巣籠《すごも》り」を吹いた。
 歌寿は病の床から起き上って戸を開いた。
 武丸は転がるように中に這入ってあとを閉し「お母さん」と縋《すが》り付いた。
 歌寿は泣き且つ怒った。「勘当をされても手癖がなおらぬ上に大恩ある家のお嬢様を盗むは何事だ」と責めた。
「どうしてそれを御存じ!」と武丸は驚いた。
「知らいでなるものか。お嬢様をかえせ」と歌寿は責めた。
 武丸はひれ伏して泣きに泣いた。
 そこへ大勢の警官が踏み込んだ。
 武丸は巧みに逃れた。
 歌寿は失神したまま息を引き取った。

     ―― 19[#「19」は縦中横] ――

 糸川家に音絵の屍体が到着した。
 養策はその屍体を見ると泣き倒おれて、奥の一室に連れ込まれた。人々は慰めかねた。
 僧侶が来て読経したあと悲しい通夜が行われた。哲也も音絵の相弟子として列席した。
 夜更けて幌《ほろ》を深く下《たら》した人力車が玄関に着いた。中から羽織袴の竹林武丸が威儀正しく現われて、案内なしに座敷に通り一同に会釈《えしゃく》して霊前に近付き、礼拝を遂げて香を焚き、懐中から名器「玉山」を取り出して「罌子《けし》の花」を吹奏し初めた。
 通夜の人々は初
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