。脅迫してんのよ。この男の方が、よっぽど悪党だわ。ねえ……」
「……………」
「……きっと脅迫してお金にしようと思っているのよ、この男は……『けれども俺は、お前の今の仕事の邪魔をしようと思っているのじゃないから安心しろ。その代りにこの手紙を見た瞬間からお前が、俺の命令に絶対に服従しなければならぬことだけは、もうトックに覚悟しているだろう。一銭五厘のねうちが、どんなに恐ろしいものか、知り過ぎるくらい、知っているだろう。そうして俺の眼が、夜《よ》も昼も、お前の身のまわりに光っていることだけは感じているだろう』……」
 ここまで読んで来ると流石《さすが》にマダム竜子の声が、怪しく震えを帯びて来た。しかしマダムの竜子は何気なく咳払《せきばら》いをして、いかにも平気らしく先の方を読みつづけた。
 玲子はその声に耳を澄ましているうちに、いつの間にか氷のような冷静さに帰っていた。春の夜の明け方の静けさにみちみちた大沢邸内のどこかに、微《かす》かに微かに人間が忍び込んで来る音が聞えるように思って一心に耳を澄ましながら、心の奥底を微かに微かに戦《おのの》かしていた。
 しかし手紙の方に気を取られていた大沢竜子はソンナことに気がつかないらしく、なおも平気な声をよそおいながら、玲子に聞えよがしに手紙の文句を読み続けて行った。
「『俺はお前に命令する。お前の家《うち》の金庫を開く暗号は、お前が知っている筈だ。お前はこの二三日の中《うち》にお前の家《うち》と、お前自身の全財産を現金に換えてしまえ。そうしてその仕事が済んだら、お前の寝室に青でも赤でもいいから色の変った電燈を点《つ》けろ。俺が直ぐに迎えに行く。犬は殺しておく方がいい。女中と、この手紙を持って行く娘は麻酔薬か何かで眠らせておけ。麻酔薬がなければ夕食後に殺しておいてもいい。後は俺が引受ける。絶対に誰にもわからない、お前にも決して面倒をかけない方法で片付けてやる。心配するな』……」
「……………」
「ああ。やっとわかったわ。ねえ玲子さん。この男はこの根高弓子の財産を横取りしてから、弓子を殺して高飛びするつもりよ。トテモ恐ろしい悪党よこの男は……呆れた……『念のために言っておくが、お前は今の娘の家庭教師の何とかいう若い大学生に惚れているようだ。お前が主人の留守中にあの大学生に何かイヤらしいことを言ったので、あの大学生が、お前の家《うち》に足踏みをしなくなったことも俺はチャンと知っている。それが今のところでは俺の一番の気がかりになっている。万一お前が、あの大学生に引かされてこの計劃を遣損《やりそこ》なうようなことがあったら、俺はあの大学生とお前を縛って、お前の家《うち》の裏庭の古井戸に生きながら投げ込む準備をしていることを忘れるな。
 お前のこれからの一生涯の幸福は、お前の財産全部を持って俺と一所《いっしょ》に外国に逃げることだ。その準備もちゃんと出来ていることを忘れるな。……お前の昔の夫より……根高弓子どの』……ほほほほほ……玲子さん!」
 いつの間にかほかのことばかり……中林先生のことばかり一心に考えていた玲子はビクッとして顔から手を離した。シャンデリアの下に美しく微笑んでいるマダム竜子の顔を見上げた。
「おまえこの手紙を通りがかりの人から言《こと》づかったの……」
 玲子は黙ってうなずいた。
「どんな人だったの……」
 母親の顔が今までに一度もないくらい優しい、柔和な、親切にみちみちた顔だったので、玲子は思わずホッとタメ息を吐《つ》いた。
「……あの……ルンペンみたいな人……」
「いくつぐらいの人だったの」
「……あの……よくわかりませんでしたけど、四十か五十くらいの髯《ひげ》をボオボオと生やした怖い顔の人……」
「ホホホホ。まあ呆れた人ねえ玲子さんは……あなたはねえ。きっと雑誌の小説ばかり読んでいるお蔭で、あたまが変テコになっていんのよ。だからコンナ手紙を貰うと、すぐに探偵小説みたいなことを考えて、夜中に起きたり何かして心配すんのよ」
「……………」
「この手紙はねえ。玲子さん。このごろ流行《はや》る幸運の手紙とおんなじに誰か物好きな人間がイタズラをするために出したものなのよ。その証拠にウチの大沢という名字がどこにも書いてないじゃないの。大抵のうちに当てはまるように書いてあるじゃないの。東京の郊外で主人が留守|勝《がち》で、奥さんが後妻で、娘があって、犬が飼ってある家《うち》だったら、そこいらにイクラでもある筈なんですからね。そんな家《うち》の娘にこの手紙をことづけて、中味を娘に知らしたら家庭悲劇を起させるくらい何でもないのですからね。そうしてその娘が本気に母親の悪いことを信じて、家《うち》を飛び出すか何かしたら、この手紙を出した悪戯《いたずら》の目的が達するのよ。この頃はソンナ悪戯を道楽にする人間がチョイチョイ方々に出て来るのよ。……ことによるとこれはソンナ風にして玲子さんを欺して家《うち》を飛び出さして、どこかへ親切ごかしに誘拐するつもりで出した手紙かも知れないね。そうして玲子さんはもう半分がトコ欺されていたのかも知れないわ。ねえ玲子さん……そうじゃない……ホホホ」
「……………」
「お母さんがいなかったら玲子さんは大変なことを仕出《しで》かして終《しま》うところだったかも知れないわ。……お母さんは玲子さんよりも年上です。玲子さんよりもズッとよく世間を知っているのですからね。こんな馬鹿な脅迫状にひっかかるような意気地のない、馬鹿な女じゃないのですからね。きょうにも夜が明けたら警視庁へ電話をかけて、この手紙のことを知らせれば直ぐにこの字を書いた本人が捕まるのですからね。そうしたらその男の正体がわかるでしょう。あたしが、そんな根高弓子なんていう女とは似ても似つかない女であることがハッキリするでしょう。……わかって玲子さん……」
 玲子は眼をパチパチさせながら半分無意識にうなずいた。それでも何だか急に淋しくて、悲しくなって来たようなので、両手を顔に当ててシクシクと泣き出した。マダムの竜子はその背中を優しく撫でてやった。
「泣くことなんかチットモないわよ。玲子さん。あなたはこの手紙の中味を盗み読みしたり、先生に話したりはしないでしょうね」
 玲子はお河童《かっぱ》さんの頭を烈しく左右に振った。ブルブルッと身ぶるいするかのように……そうして急に恐ろしくなって来たために、泣声も出ないくらい息苦しくなって来た。
「ホホホ。意気地がないのねえ。あんまりアナタが神経過敏すぎるからよ。……ね。玲子さん……よござんすか。よしんばこの手紙が全部ほんとうで、お母さんが根高弓子という恐ろしい毒婦だったとしても、あなたはチットモ心配することはないのですよ。あたしの戸籍はチャントしていて、正しいアナタのお母さんに違いないのですからね。こんなケチなユスリにかかってビクビクするような子爵夫人じゃないんですからね。チェッ。馬鹿にしてるわよ。ホントニ……」
 マダム竜子のこうした言葉尻は、貴夫人に似合わない下品な、毒々しい調子であった。玲子も両手を顔に当てたままビクッとした位であったが、竜子は直ぐに言葉を柔らげて今一度、玲子の背中を撫でてやった。
「サアサア玲子さん。モウじきに夜が明けますからね。早くおやすみなさい。明日《あした》は日曜ですからユックリと寝んねして、眼が醒めたら、あなたのお好きな中林先生の処へ遊びに行っていらっしゃい。……ね……そうして先生に今一度あなたに教えに来て下さるようにアナタから頼んでいらっしゃい。ね。ね。……さあさあ。それを楽しみにしてお寝《やす》みなさい。寝間着一つで風邪を引きますよ。サアサア。もう何も心配なことはないのですから……」
 玲子は思いがけなく変った母親の、親切この上もない態度に絆《ほだ》されたらしく、なおもシクシク泣き続けていたが、その中《うち》にヤットの思いで立上った。涙を拭き拭き、
「おやすみなさい」
 と言って顔を上げたが、その時にはもうマダム竜子は寝室に入ったらしく、入口のカーテンが微かに揺らぎ残っているだけであった。
 玲子はまた急に悲しくなりながら、サルーンの電燈を消して、ギシギシと鳴る階段を手探りの足探りにして三階の方へ上って行った。

 それから何分か、何十分か……ホンノちょっとばかり三階の寝床の中でウトウトしたと思ううちに突然、下の二階あたりから消魂《けたたま》しい物音が聞こえて来たので、玲子はフッと眼を見開いた。睡《ね》むいのを我慢しながらモウ青白く夜の明けている狭い梯子段を伝い降りて、母親の寝室のカーテンの中へ走り込んで行った。もしや……と胸を轟《とどろ》かしながら……母親を気づかいながら……。
 けれども玲子は寝室の中へ一歩を踏み入れかけると同時にハッと立止まった。寝室の中の光景を一目見ると、入口の柱に獅噛《しが》みついてガタガタと震え出したのであった。
 ツイ今しがたまでピンピンしていたマダムの竜子が、派手な寝間着のまま、寝台から床の上に引きずり卸《おろ》されて、髪を振り乱したまま仰向けさまの大の字になって横わっている。その左の胸に血だらけになった白鞘《しらざや》の匕首《あいくち》が一本、深々と刺さっている。その屍体の背中の下から黒い血がムルムルと流れ出して高価な露西亜《ロシア》絨氈の花模様の上を浸み込んでは流れ、流れては浸み込みして大きな花ビラのように拡がってゆく。
 そのほかには誰も居ない。
 玲子はもうハアハアと息を切らして眼が眩《くら》んだようになっていた。髪の毛が一本一本に逆立って、身体《からだ》中がガタガタと音を立てそうになるのをジッと我慢しながら、その惨死体がたしかに母親の竜子に違いないことを見定めると、玲子は思わずハッと飛上った。
「お母さまッ……」
 と叫んで走り寄って、血だらけの胸に縋《すが》りついてワッとばかりに泣き伏した……。
 ……と思ったがかの時遅くこの時早く、玲子はその屍体の一歩手前で、背後からシッカリと抱き止められていた。
 そう気がついた玲子は、全身の血が一時にピッタリと冷え凍ったように思った。抱き止められたまま、またも石のように固くなって、手足を縮み込ませていた。その時に背後から抱き止めた人が声をかけた。それは静かな優しい声であった。
「玲子さん。屍体に触っちゃいけません。もうジキ警察の人が来ますから……」
「アラッ……中林先生……」
 そう叫ぶと同時に玲子は緩んだ中林先生の腕の中でクルリと向き直って制服姿の胸に顔を埋めた。シッカリと縋りついたままワッとばかりに泣き出した。
 中林先生は、その逞ましい腕に、泣いている玲子を軽々と抱き上げるようにして、サルーンへ連れて来た。そこのロココ式の長椅子の上に腰を卸して、泣き沈んでいる玲子のお河童《かっぱ》さんを慰めるように撫でまわしてやった。そうして古びたネル一枚の見すぼらしい寝巻姿に包まれた瘠せ枯れている玲子の手足を見まわすと、その男らしい切れ目の長い眼に涙を一パイに浮かめた。汗まみれになった自分の髪毛を房々に撫で上げながら、赤ちゃんをあやすように言って聞かせた。
「可哀そうに……苦労させましたね、玲子さん……」
 玲子は中林先生の肩に縋りながら一層烈しく泣き出した。
「玲子さん……僕は今のお母さんが初めてこの家《うち》に来られた時からこの女《ひと》はイケナイ人だ……玲子さんのためにならない人だということを看破《みやぶ》っていたのです。ですからこの家《うち》に来るのをやめて、あの女のすることを眼も離さずに見張っていたのです。玲子さんにも早く打ち明けようと思っていたのですが、玲子さんは頭はステキにいいんですけども心がトテモ正直ですから、もし僕が、あの女を疑っていることが、玲子さんを通じてあの女にわかって用心させるといけないと思いましたから、わざと黙っていて、あの女が玲子さんをイジメるのを知らん顔して見ていたのです。あなたも辛かったでしょう。しかし僕も辛かったですよ。ほんとにほんとにすみませんでした」
「イイエイイエ。先生。先生を怨む気持なんか……あたし……あたし……
前へ 次へ
全3ページ中2ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
夢野 久作 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング