ドア》の中央にある小さな覗き窓にお河童《かっぱ》さんの額を押しつけて青白い外の月夜を覗いた。そのままじっと動かなくなった。
 その覗き窓の直ぐ下に大きなペンキ塗の犬小舎の屋根が月あかりに見えていた。それはズット前のこと、大沢家に泥棒が這入《はい》りかけたのを調べに来た刑事さんが「ここが一番物騒ですよ」と言ったので、玲子の父親の大沢子爵が、友人の村田大将から貰って来た黒竜江《アムール》生れのセパードを繋いでいる小舎であった。そのセパードはアムールといってステキに大きい、人懐《ひとなつ》こい犬で、その中でも玲子と、玲子の先生の中林哲五郎には特別によく懐《なつ》いているのであった。
 しかしその時に玲子は別段にアムールの名を呼ぼうとはしなかった。ただ一心にその犬小舎の周囲を取巻く軒下の暗闇を見守っているきりであった。二時半を打っても三時を打っても……片割月が西側の森に隠れて、そこいらがすこし暗くなりかけても、一心に窓際に掴まっていた。そうして東の空が、ほのぼのと明けかかって来ると、玲子はほっとタメ息を一つして廊下を引返して玄関に出た。足音を忍ばしてまだ真暗な二階のサロンへ上って来た。
 ところが玲子が三階の物置へ通ずる狭い板梯子へ片足を踏みかけようとした時に、サロンの天井に吊された美事なキリコ硝子《ガラス》のシャンデリアがパッと輝き出したので、玲子は思わずハッと身を縮めたまま背後を振り返った。あんまり急に明るくなったので眼をパチパチさせてみたが暫くは何も見えなかった。玲子は梯子段に片足を踏みかけて振返ったまま石のように固くなってしまった。
「あら……お母様……」
 サロンの片隅の寝室に通ずるカーテンの蔭から美しい婦人の姿が徐々に現われた。それは三十四五かと見える前髪を縮らした美しいマダムで、全身が刺青《いれずみ》のように青光りする波斯《ペルシャ》模様の派手な寝間着を着た、石竹色のしなやかな素足に、これも贅沢な刺繍のスリッパを穿いていたが、その顔は大理石を彫《きざ》んだように真白く硬《こわ》ばって、大きな美しい二つの瞳には真黒い怒りがみちみちていた。
「何をしているのです」
 その声は低くて力があった。小柄な、瘠《やせ》こけた、見すぼらしい姿の玲子は、たださえ色の悪い顔色を一層、青白く戦《おのの》かしながらマダムの方へ向き直って、赤茶気たお河童《かっぱ》さんをうなだれた。校長先生の前に呼出された時のように……。
「……はい……」
「はいではありません。子供の癖に真夜中に起きて家《うち》の中をノソノソ歩きまわるなんて……何て大胆な……恐ろしい娘《こ》でしょう……」
 マダムの口調は憎しみにみちみちていた。玲子はモウぽとりぽとりと涙を滴《た》らしながら普通《ただ》さえ狭い肩をすぼめて、わなわなと震えていた。
「はい……あの……あの……泥棒が……」
「……泥棒……何が泥棒です……」
「あの……あの……このごろ……アムールが御飯を食べなくなりましたので……」
 マダムの薄い唇に冷笑が浮かんだ。
「ほほほ。利いた風なことを言うものではありません。泥棒が家《うち》の犬を手馴ずけるために何か喰べ物でも遣っていると言うのですか」
「……………」
「ハッキリ返事をなさい」
「……ハ……ハイ……」
「何がハイです。うちのアムールは、そんなに手軽く他所《よそ》の人に馴染《なじ》むような馬鹿犬ではありません。それとも誰か怪しい者がこの家《うち》を狙っている証拠でもありますか」
「……………」
「ハッキリ返事をなさい」
「ハイ……ハ……ハイ……」
「あると言うのですか」
「……………」
「あなたは……どうしてソンナにしぶといのですか」
 そういううちにマダムの背後《うしろ》に隠れていた白い肉付きのいい右手が前に出て来た。その手には黒い、短い、皮革《なめしがわ》の鞭《むち》がシナシナと撓《しな》っていた。
 玲子は、それを見るなりグッタリと力を失ってしまった。今にも気絶しそうに左手の柱に掴まると、右手で懐中から一通の封筒を取出してマダムの方向へ差出した。ガックリとうなだれて涙をハラハラと流しながら……。
 その封筒の文字を、遠くから一目見ると、マダムはハッと顔色を変えた。しかし又すぐに何も知らぬ白々しい顔になって冷笑した。
「ホホホ。神経過敏にも程があるわねえ、この児《こ》は……何です……見せて御覧なさい」
 といううちにツカツカと近寄って来てその手紙を引ったくって無造作に封を破った。中味を拡げるとシャンデリアの方向に向けて読み初めた。
 玲子は今にも鞭が降り落ちて来るかのように、その前にペタリと坐って両手で顔を蔽うた。
「ホホホ。この手紙がどうしたんですか……何ですって……『弓子、久し振りだなあ、よもや忘れはしまい。俺は十五年前に別れたお前の夫、沼霧匡作《ぬま
前へ 次へ
全7ページ中2ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
夢野 久作 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング