」
「まあまあ落ちついて聞いて下さい。あなたが、それでもあの女をホントの母親のように思って心から慕い、敬っていられるのを見て、僕がドンナに感心したことか……そうしてドンナに心配したことか……ね。玲子さん。わかって下さるでしょう、僕の心持は……」
「ええ。ええ。あたし先生ばっかりを、おたよりに……」
「そればかりじゃありません。毎日のようにお講義を聞いている大沢先生が日に増しお顔色が悪くなってゆかれるのに気がついた僕がどんなに気を揉んだことか……大沢先生は世界に知られている鳥の学者ですからね。いつまでもいつまでも生きていて頂かなければならぬ日本の国宝ともいうべき貴い方ですからね……それで思い切ってある日のこと大学校で大沢先生にお眼にかかって聞いてみると、大沢先生が御自分はお気づきにならないまんまにあの女から毒殺されかけておいでになることが、僕にハッキリとわかったのです。大沢先生は去年の秋口のある晩のこと、蒲団が薄かったので鼻風邪を引かれたのです。それで鼻が詰まってしまってアンマリ不愉快なので学校を休もうかと思っていられるところへ、あの女がすすめてコカインの霧吹器《スプレー》で先生の鼻の穴を吹いて上げると瞬く間に鼻がスッと透って、頭がハッキリして来ましたので、先生は大喜びで、そのスプレーをポケットに入れて学校に来られました。そうしてソレ以来、風邪を引かれなくとも頭をハッキリさせるために彼女の調合したコカインとアドレナレンのスプレーで鼻の穴をプープー吹かれるようになって、とうとう本物のコカイン中毒になられたのです。しかもそのコカインの分量をあの女がグングン強めて行ったのに違いありません。そうして大沢先生の心臓をグングン弱めて行ったに違いないのです。あの女は現在横浜の西洋人のお医者を情夫に持っているのですからね。そこから密輸入のコカインを自由自在に手に入れているに違いありません。そうして最後には何かモット強い……たとえば青酸加里か何かをスプレーの薬に使って、コカイン中毒で死なれたように見せかけるつもりだったのでしょう。トテモ怖ろしい女だったのですよ。アレは……ね。そうでしょう玲子さん」
玲子は眼を大きく大きく見開いて中林先生の顔を見上げて呼吸《いき》も吐《つ》けないでいた。その顔を見下しながら中林先生はニッコリと笑った。
「ところが悪いことは出来ないものです。それ以来、僕が毎日毎日あの女の行く先を探っている中《うち》に、あの女のアトを僕と同じように跟《つ》けまわしている一人のルンペンみたような男がいるのに気がつきました。そうしてツイこの四五日前のことです。そのルンペンがある酒場で酔っ払った時に……俺はモウ近い中《うち》に大金持になるんだぞ……と口走るのを聞きましたから、僕はハッとしました。イヨイヨ危ないナ……と思いましたから直ぐに大沢先生に何もかも打明けて、家《うち》を出て行って頂いたのです。心臓がもうかなり弱っていられるのを無理にそうして頂いたのです」
何もかも忘れて聞き惚れていた玲子はハッと気がついて、心からうなずいた。
中林先生の深い深い親切と智慧に、驚いて、感心してしまいながら、その乱れた髪毛《かみ》の下に光る凜々《りり》しい瞳の光りを見上げていた。
「けれども玲子さん。お父さんのことは心配しなくともいいです。大沢先生が信州へ行かれたのは嘘なのです。先生は今東京の大学病院に這入ってコカイン中毒の治療をしておられるのですよ。そのうちに元気になって帰っておいでになるでしょう」
「まあッ……ホント……」
玲子は思わず中林先生の肩にかじりついた。その襟筋に熱い熱い感謝の涙を落しかけた。
中林先生も声をうるませた。
「ほんとうですともほんとうですとも。僕が附添って入院させたのですから。そうして何もかもお話しておいたのですから御心配に及びません。その時に何もかもおわかりになった大沢先生は僕の手を握って、玲子のことを頼む頼むと何度も言われましたから、僕も一生懸命になって気をつけているところへ、思いがけない昨日《きのう》のお手紙でしょう。あの悪党女が、お父さんのお留守を利用して、自分一人だけでお金を盗んで逃げようとしているのを感づいた、もう一人の男の悪党が横合いから飛込んで、そのお金をあの女ごと引ったくろうとしているのです……そのためにはドンナ恐ろしい犠牲を払ってもいい覚悟をしているらしい。一刻も猶予しないつもりらしいことがわかりましたから、僕は直ぐにこの家《うち》に忍び込んで、どんなことが起るか待ち構えていたのです。それを知らずにあの男は、お父さんのお留守を幸いに忍び込んで、あの女を脅迫しようと思ったのでしょう。短刀を持って抜足、さし足この段々の下まで来ると、ちょうどその時にこのサローンであの女と玲子さんとの問答が初まったのです。
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