にも突然に老婆がワアと云って振り返ったら……なぞとあられもない事を考えているうちに、台所に首を突込んでゴソゴソやっていた老婆は、片手に茶碗を持ちながらヨタヨタと這いもどって来た。
「ヘイ……つめたいお茶を一ツ……おあてものも御座いませんで……アナタ……」
「……ヤッ……どうもありがとう……どうぞお構いなく……」
 と大きな声で云いながら、私は余儀なく板張りに坐り込んだ。老婆も私とさし向いに坐ったが、瘠せ枯れた白い手で襟元を直して、蓬々《ほうほう》と逆立《さかだ》った髪毛《かみ》を撫で上げた。戸籍面によるとこの老婆はオシノといって、敬吾の祖母に当る嘉永生れの高齢者であるが、耳も眼もシッカリしているようで、気持ちも存外確からしい。
 私は心安いような態度で茶碗を口に近づけて、一《ひ》ト口飲む真似をした。そうしてブッキラボーに口を利いた。
「敬吾君はいつ頃お帰りで……」
 老婆は眼をショボショボとしばたたいた。右の眼の下の皺《しわ》を、口と一緒に歪《ゆが》まして、ペロリと一つ舌なめずりをしたが、やがて又、淋しい、たよりないシャガレ声を出して、
「……ハ――イ。もう帰る頃と思いますが……アナタ……」
 と云いつつ私を見詰めると、モクモクと口を動かした。その疑うような白い眼付きを見ると、私はたまらない程奇妙な気持ちになったので、新聞の事も何も忘れてしまって、取って附けたようにお辞儀をした。
「それじゃ……いずれ又……」
「……ア……さようで……アナタ……」
 そう云いながら老婆は、何かもっと云いたいような顔付きをしたが、又モクモクと口を動かすと、黙り込んでしまった。
「ドウゾお構いなく、いずれ又そのうちに……どうぞ宜《よろ》しく……」
 と切れ切れに云い云い玄関に出て、靴に足を突込むや否や表に飛び出して、格子戸をピシャリと閉めた。オシノ婆さんが這いずりながら、追っかけて来るような気がしたので……。

 それから一町ばかりのあいだを、スッカリ失望した気持ちになって、小急ぎに歩いた私は、八幡《はちまん》前の賑やかな通りへ出る四五軒手前の荒物屋の前まで来ると、フト立ち止ってその店の中へ這入った。
「バットがありますか」
「入《い》らっしゃいませ」
 とステキに明るい声が奥の方からして、デブデブに肥った四十恰好のお神《かみ》さんが、乳呑み児を横すじかいに引っ抱えながら出て来た。その脂切《あぶらぎ》った笑い顔を見ると、私はホッと救われたような気持ちになって、バットを三個《みっつ》ばかり受け取ったが、とりあえず一本引き出して吸口をつけながら、こころみに聞いて見た。
「この向うに花房って家《うち》がありますね」
「ヘエ……」
 と私の顔を見たお神さんは、急に笑い顔をやめて、大きくうなずいた。
「あの家《うち》のお嫁さんは死んだんですか」
「ヘエ……」
 と云いながらお神さんは、一層|魘《おび》えた表情になって、唾をグッと嚥《の》み込んだ、私は占《し》めたと思いながら帳場に近づいて、火鉢の炭団《たどん》にバットを押しつけた。
「マッチでお点《つ》けなさいまっせえ。炭団では火がつき悪《にく》う御座いますけん」
 と云ううちにお神さんは、私の横にベッタリと腰をかけて、マッチの箱をさし出した。このお神さんはあの家《うち》の事を喋舌《しゃべ》りたがっているナ……と私は直覚した。
 それから根掘り葉掘りして、私一流の質問を続けてみると、果してお神さんの説明は、一々興味深い新聞種になって行った。但、筋は極めて単純であった。
 花房というのは現在、福岡の電燈会社の工夫をやっている男で、昨年の春にオシノという高齢の祖母と、若い嫁女《よめじょ》のツヤ子を連れて、この町内の現在の家に引越して来た者であるが、夫婦仲は云うまでもなく、オシノ婆さんと嫁女のオツヤとの仲が、親身の間柄でも珍らしいくらい睦まじいので、近所の評判になっていた。敬吾がつとめに出かけた留守中に、嫁女のツヤ子がオシノ婆さんの手を引いて、程近い八幡様の境内を散歩させたり、お湯に連れて行く光景などを、近くの人はよく見かけた。敬吾が一時やめていた晩酌を、オシノ婆さんが嫁女にすすめて、無理に又はじめさせたというような噂までも伝わった。
 ところがそのうちに嫁女が姙娠したことがわかると、オシノ婆さんは八幡様へ参詣《さんけい》しなくなった。
「お前が転びでもすると私が敬吾に申訳けがない。孩児《ややこ》の着物も私が縫うてやるけに、成るだけ無理をせんようにしなさい。その代りキット男の子を生みなさいよ」
 と寝ても醒めても云っていた。嫁女も素直に笑いながら、
「ハイ……キット男の子を生みます」
 と請け合っている……という話を、亭主の敬吾が煙草を買いに来たついでに、お神さんに話して聞かせた。
 するとそのうちに嫁女がチブスに
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