ダラダラと浴びて、さながら血まみれになっているようで、白い砂の上に引きずった尾の周囲《まわり》は勿論のこと、幟棹の根元から、白木の墓標の横腹へかけていろんな毒々しい、気味わるい色の飛沫《したたり》を一パイに撒《ま》き散らしたまま、ダラリと静まり返っている。ただ、棹の上に取り付けてある矢《や》の羽型《はがた》の風車が、これも彩色を無くしたまま、時折り、あるか無いかの風を受けて廻転しかけては、ク――ック――ッと陰気な音を立てているばかり……空は一面の灰色に曇って、今にも降り出しそうである。
 私は白砂の染まった処を踏まないように、グルリと遠まわりをして、小さな松の角材で建てられた、墓標の表面を覗いて見たが、又も奇怪な事実を発見したので、思わず唾《つば》を嚥み込んだ……真黒々《まっくろぐろ》になるほど浸《し》み流れた墨汁の中に「花房ツヤ子之墓」と書いた拙《まず》い楷書が威張っている。裏の文字を見ると「……四月三十一日卒……行年二十三歳……」とある……ツイ十日ばかり前に出来た仏様である。
 ……若い女の墓と……鯉幟と……心の中で繰り返しつつ、私は暫くの間石のように立ち竦《すく》んでいたが、やがて思い出したように横を向いて唾を吐いた。

 それから二十分程経つと、私は筥崎の町役場へ行って死亡届を調べていた。そうして、それから又、十分ばかりの後には、筥崎八幡宮の裏手の森蔭に「花房敬吾」と標札を打った、長屋風の格子戸の前に突立っていた。
「……御免下さい……お頼み申します……御免下さい……」
 と二三度繰り返すと、何の返事も無いままに、格子の中の玄関の破れ障子《しょうじ》がガタガタと開《あ》いた。
「……敬吾かえ……」
 と云うシャガレた声が聞えると間もなく、一人の老婆が、障子に縋《すが》り付くようにして這い出して来た。
 私は又もやドキンとさせられた。古い格子越しに見ると、その老婆は、黄色い胡麻塩《ごましお》頭が蓬々《ほうほう》と乱れて、全身が死人のように生白く、ドンヨリと霞んだ青い瞳を二ツ見開いて、一本も歯の無い白茶気た口を、サモ嬉しそうにダラリと開《あ》いている。身体《からだ》には垢だらけの手拭|浴衣《ゆかた》を着て、赤い細帯を捲きつけていたが、帽子を取った私の顔を見上げると、みるみる暗い、萎《しな》び込んだ表情にかわってしまった。
「ドナタサマデ……アナタ……」
 と頭を下げつつゴックリと唾を呑んだ。
 私は返事するのを躊躇した。この新聞材料《たね》にぶつかった最初から受け続けている、何とも云えないイヤナ感じを、ここでもっと突込んでみようか……それともこの辺で思い切ってしまって、もっと明るいキビキビした、ほかの材料《たね》に乗り換えようかと、一瞬間思い迷った。けれどもその時に私は、今までの惰力とでもいうべき一種の気持ちに押されて、ツイ間に合わせの返事をしてしまった。
「……エエ……敬吾君と以前御交際を願っておりました……和田というものですが……」
「オオオオ、それはそれは。まあお這入り下さいまし。お上り下さいまし。……アナタ……」
 と云ううちに老婆は、古ぼけた畳の上を、赤ん坊のようにベタベタと這いながら引込んで行った。そのあとを見送って考えていた私は、やがて又、思い切って格子戸を開いた。
 家は二畳の玄関と、一坪ほどの台所と便所と、八畳の座敷に押入れと床の間という、古ぼけた長屋みたような瓦落多普請《がらくたぶしん》であるが、家具らしいものはあまり見えない。座敷は両側とも雨戸を閉めて、蚊帳《かや》が一パイに釣ってあるので、化物屋敷のように暗い上に、黴臭《かびくさ》いような、小便臭いような臭気《におい》が、足を踏み込むと同時にムッとした。しかし老婆は暗闇に慣れていると見えて、平気で蚊帳の裾を這いながら、縁側から台所の方へまわって行った。私もそのあとから蚊帳を押《お》し除《の》け押し除けして、雨戸の内側の縁側の板張りへ出たが、そのついでに蚊帳の中を覗いてみると、寝床が三ツ敷いてあって、床の間の前に括《くく》り枕が一つと、台所側に高枕が二つ並べてある。その高枕と括り枕との間に、新らしいメリンスの小さな布団と、赤い枕がキチンと置いてあるのは赤ん坊の寝床であろう。夫婦と老婆が寝ていたものとも思われるが、妻女は死んでいる筈だから、寝床が三つあるのはヘンテコである。しかも役場の戸籍面には妻女の死亡が届け出てあるだけで、赤ん坊の事は何とも書いてないのに……アノ鯉幟……この小さな新しい布団……おまけに今は真ッ昼間ではないか……。
 私は進退|谷《きわ》まったような気持ちで、帽子を持ったまま縁側に跼《しゃが》んだ。白昼《ひるま》でありながらソンナ気がチットモしない。雨戸を洩れる光線が、月の光りのように白く見えて、ヒッソリとした静けさが身に迫って来る。今
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