トすると間もなく眼の底の空間に、空色のパラソルが一本、美しく光りながら浮き出した。そうしてフワリフワリと舞い上りつつ左手の方へ遠く遠く、小さく小さく消えて行った……と思うと又一つ同じパラソルがもとの処にホッカリと浮かみ出したが、それがだんだんと小さくなって、左手の方へ消えて行くのを見送るたんびに、私は何ともいえない、滅入《めい》り込むような恐怖を感じはじめた。
 私はハッと眼を見開いて、キョロキョロとそこいらを見まわした。そうしてその恐ろしさを打ち消すために、もう一杯、又一杯とグラスを重ねたが、飲めばのむ程その幻影がハッキリして来るのであった。しまいには美しいパラソルが、あとからあとから浮き出して、数限りなく空間を乱れ飛ぶようになった。
 そのめまぐるしい空間を凝視しながら、私はガタガタとふるえ出した。

     その二 濡《ぬ》れた鯉《こい》のぼり

 前のパラソル事件以来、私はピッタリと盃を手にしなくなった。それでも時折りはたまらなく咽喉《のど》が鳴るのであったが、飲めば必ず酔う……酔えばキット空色のパラソルの幻影《イリュージョン》を見る……ガタガタと慄え出す……という不可抗力のつながりに脅かされて、とうとう絶対の禁酒状態に陥ってしまったので、そんな事を知らない連中《みんな》を、かなり不思議がらせたらしい。何しろ飲み旺《さか》っている絶頂だったので、以前の飲み仲間なぞは、一時真剣に心配したり冷かしたりして、手を換え品を換えて詰問したものであるが、私は唯ニヤニヤと笑うばかりで一言も説明らしい説明をしなかった……否、説明したくなかった……というのが本当の説明であったろう。そうしてそのお蔭という訳でもないが、事実はやはりそのおかげ[#「そのおかげ」に傍点]に違いなかったであろう、私は間もなく社長の媒妁《ばいしゃく》で妻を迎えたのであった。
 私の禁酒を不思議がっていた連中は、そこでやっと訳がわかったような顔をして、盛んに私を冷かしたものであった。けれども私は依然としてニヤニヤのまま押し通した。そうして福岡から二里半ばかり東北の香椎《かしい》村に、二人切りの新世帯を作って、そこから汽車で福岡へ通勤することにしたが、しかし私は、その新妻から尋ねられた時にも、やはりニヤニヤと笑った切り「酒が飲めなくなったわけ」を説明しないで済ましたのであった……パラソルの女を見殺しにした
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