には人物が居なかったのか。もしくは居るとしても、天下を憂い、国を想う志士の気骨《きこつ》が筑前人には欠けていたのかというと、ナカナカそうでない。事実はその正反対で、恐らく日本広しと雖《いえど》も北九州の青年ほど天性、国家社会を患《うれ》うる気風を持っている者はあるまいと思われる。そうした事実は、明治、大正、昭和の歴史に出て来る暗殺犯人が大抵、福岡県人である実例を見ても容易に首肯出来るであろう。
維新前の黒田藩には、西郷南洲、高杉晋作に比肩すべき大人物がジャンジャン居た。流石《さすが》の薩州も一時は筑前藩の鼻息ばかりを窺《うかが》っていた位である。有名な野村|望東尼《ぼうとうに》を仲介として西郷、高杉の諸豪は勿論、その他の各藩の英傑が盛んに筑前藩と交渉した形勢は、筆者の幼少の時に屡々《しばしば》、祖父母から語って聞かされた事である。但しそれ等筑前藩の諸英傑が、何故に維新以後、音も香《におい》もなくこの地上から消え失せてしまったかという、その根元の理由に考え及ぶと、筆者も筆を投じて暗然たらざるを得ないものがある。
筆者の祖先は代々黒田藩の禄《ろく》を喰《は》んでいた者だから黒田様の事はあまり云いたくない。しかし何故に維新後に筑前閥が出来なかったか……という真相を明らかにするためには、どうしても左《さ》の二つの事実を挙げなければならぬ事を遺憾とする。
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一、当時の藩公が優柔不断であった事。
二、黒田藩士が上下を問わず人情に篤《あつ》く、従って藩公に対する忠志が、他藩の藩士以上に潔白であった事。
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ところでここで今一つ、了解しておいてもらわねばならぬ事は、昔の各藩の藩士が日本の国体を知らなかった……換言すれば昔の武士というものは、自分の藩主以外に主君というものは認識していなかった事である。
これは誠に怪《け》しからぬ事で、今の人には到底考えられない、同時にあまり知られていない大きな事実で、同時に時節柄、御同様まことに不愉快な史実ででもあり得るのであるが、しかしこの史実を認識しないで明治維新の歴史を読んでいると飛んでもない錯覚に陥る事がある。すくなくとも王政維新なる標語を各藩に徹底させるのが、どうして、あんなに骨が折れたのかと不思議の感に打たれるので、黒田藩では特にこうした傾向が甚しかった事が窺われるようである。
そこへ藩公が優柔不断と来ているからたまらない。佐幕派が盛んになると勤王派の全部に腹を切らせる。そのうちに勤王派が盛り返すと今度は佐幕派の全部を誅戮《ちゅうりく》する。そうすると藩士が又、揃いも揃った正直者ばかりで、逃げも隠れもせずにハイハイと腹を切る……といった調子で、最初から一方にきめておけば、どちらかの人物の半分だけは救われたろうに、藩論が変るごとに行き戻りに引っかかってバタバタと死んで行ったのだからたまらない。とうとう黒田藩の眼星《めぼ》しい人物は、殆んど一人も居なくなってしまった。たまたま脱藩して生野《いくの》の銀山で旗を挙げた平野次郎ぐらいが目っけもの……という情ない状態に陥った。
しかし世の中は何が仕合わせになるか、わからない。こうした事情で明治政府から筑前閥がノックアウトされたという事が、その後《のち》に於ける頭山満、平岡浩太郎、杉山茂丸、内田良平等々の所謂、福岡浪人の濶歩《かっぽ》の原因となり、歴代内閣の脅威となって新興日本の気勢を、背後から鞭撻しはじめた。……何も、それが日本のために仕合せであったに相違ないと断定する訳ではない。随分迷惑な筋もあったに違いないが、しかしそうした浪人の存在が、西洋文化崇拝の、唯物功利主義の、義理も、人情も、血も、涙も、良心も無い、厚顔無恥の個人主義一点張りで成功した所謂、資本家、支配階級の悩みの種となり、不言不語の中《うち》に日本人特有の生命《いのち》も要らず名も要らず、金《かね》も官位も要らぬ底《てい》の清浄潔白な忠君愛国思想を天下に普及、浸潤せしめた功績は大いに認めなければならぬであろう。
従って歴史に現われない歴史の原動力として、福岡人を中心とする所謂九州浪人の名を史上に記念しておく必要がないとは言えないであろう。
勿論浪人と雖《いえど》も生きた血の通う人間である。家族もあれば睾丸《きんたま》もある。生命《いのち》も金《かね》も官位も要らないとか何とか強情を張るにしても、そんな場面にぶつかる迄に何とかして喰い繋いで生きて行かなければならない。況《いわ》んやその命を捧げた乾児《こぶん》どもが、先生とか、親分とかいって蝟集《いしゅう》して、たより縋《すが》って来るに於てをやである。浪人生活の悩みは実に繋《かか》ってこの一点に存すると云っても過言でない。
だから……という訳でもあるまいが、彼等
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