ン州……大変事《おおごと》の出来たぞ』
『……芽出度《めでた》い……』
『殴《くら》わせるぞ畜生。芽出度過ぎて運の尽きとるじゃないか』
『ドウすれあ良《え》えかいな』
『仕様はない。逃げよう。支那人《チャンチャン》が来て五円戻せチュータてちゃ、あの五円札は酒屋から取戻されん。そんならチいうて大惣の病気をば今一度、非道《ひどう》なす訳には尚更行かん……よしよし……俺が一つ談判して来てやろう』
それから木賃宿のオヤジに談判しますと、宿賃は要らん。大病人に死なれちゃタマラン。早よう出てくれいと云います。
コッチは得たり賢しです。直ぐにヒョロヒョロの大惣をツン州の背中へ帯で十文字に結び付けて、外へ出ましたが、別段、どこへ行くという当ても御座いません。その中《うち》にフト稲佐の山奥へ、私の知っている禅宗坊主が居る事を思い出しまして、昨夜《ゆんべ》の鐘の音は、もしやソイツの寺じゃないか知らんと気が付きました。何ともハヤ心細い、タヨリにならぬ空頼みをアテにして、足に任せて行くうちに、何しろ十二月も三十日か三十一日という押詰まっての事で、ピューピュー風に吹かれた大病人上りの大惣が寒がります。哀れなお話で、今にも凍え死にそうな色になって『寒い寒い』と云いますので、タッタ一枚着ておりました私の褞袍《どてら》を上から引っ被《かぶ》せて、紅褌《あかべこ》一貫で先に立って、霜柱だらけの山蔭をお寺の方へ行きますと、暫く行く中《うち》に、大惣は元来の大男で、ツン州の力が足らぬと見えて、十文字に縛った帯が太股《ももどう》に喰い込んで痛いと大惣が云い出しました。
私はトウトウ腹が立ってしまいました。裸体《はだか》のままガタガタ震えながら大惣を呶鳴《がみ》付けました。
『太平楽|吐《こ》くな。ええ。このケダモノが……何かあ。貴様が死《しに》さえすれあ二十円取れる。市役所へ五十銭附けて届けれあ葬式は片付く。アトは丸山に行《い》て貴様の狃除《なじみ》をば喜ばしょうと思う居《と》る処《と》に、要らん事に全快《よう》なったりして俺達をば非道《ひど》い眼に合わせる。捕らぬ狸の皮算用。夜中三天のコッケコーコーたあ貴様《ぬし》が事タイ。それでも友達甲斐に連れて来てやれあ、ヤレ寒いとか、太股《ももどう》の痛いとか、太平楽ばっかり祈り上げ奉る。この石垣の下に捨てて行くぞ……エエこの胆泥棒《きもぬすと》……』
『ウ――ム。棄てるなら……助けると思うて……酒屋の前へ棄ててくれい。昨夜《ゆうべ》の釣銭《つる》をば四円二十銭置いて行《い》てくれい』
『ウハッ……知っとったか。外道《げどう》サレ』
そんな事で向うの禅宗寺へ逃込みますと、有難いことにその和尚という奴が、博多の聖福寺《しょうふくじ》から出た奴で、私たちの友達ですケニなかなか人物が出来《でけ》ております。
『ワハハハ。それは芽出度《めでた》い。人間そこまで行《い》てみん事には、世の中はわからん。よろしい引受けた。その支那人なら私も知ってる。ウチの寺へ石塔を建てて、その細工賃を一年ばかり石屋へ引っかけて、拙僧《わし》に迷惑をかけとる奴じゃ。ええ気味《きび》じゃええ気味じゃ。文句附けに来たら私が出てネジて上げる。心配せずに一杯飲みない。オイ。了念了念。昨夜《ゆんべ》の般若湯《はんにゃとう》の残りがあろう。ソレソレ。それとあのギスケ煮(博多名産、小魚の煮干《にぼし》)の鑵を、ここへ持って来なさい』
というたような事でホッと一息しました。その寺で大惣に養生をさせまして、それから三人で平戸の塩鯨の取引を初めましたのが運の開け初めで、長崎を根拠《ねじろ》にして博多や下関へドンドン荷を廻わすようになりましたが、その資本《もとで》というたなら、大惣の生胆《いきぎも》一つで御座いました。人間、酒と女さえ止めれば、誰でも成功するものと見えますナア。ハハハハ……」
湊屋仁三郎の逸話は、この程度のものならまだまだ無限に在る。仁三郎の一生涯を通ずる日常茶飯が皆、是々的《このて》で、一言一行、一挙手一投足、悉《ことごと》く人間味に徹底し、世間味を突抜けている。哲学に迷い、イデオロギイに中毒して、神経衰弱を生命《いのち》の綱にしている現代の青年が、百年考えても実践出来ない人生の千山万岳をサッサと踏破り、飄々乎《ひょうひょうこ》として徹底して行くのだから手が附けられない。もしそれ百尺|竿頭《かんとう》、百歩を進めた超凡越聖《ちょうぼんおっしょう》、絶学《ぜつがく》無造作裡《むぞうさり》に、上《かみ》は神仏の頤《あご》を蹴放《けはな》し、下《しも》は聖賢の鼻毛を数えるに到っては天魔、鬼神も跣足《はだし》で逃げ出し、軒の鬼瓦も腹を抱えて転がり落ちるであろう。……こうした湊屋仁三郎一流の痛快な消息のドン底を把握し、神経衰弱の無限の乱麻を一刀両断しようと
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