たて》に出て御機嫌を取ったり、ヨタを飛ばして煙に巻いたりするような小細工もしない。いつもザックバランの対等の資格で割り込んで行って、睨み合い同志の情をつくさせ、義をつくさせて、相互の気分にユトリを作らせ、お互い同志が自分の馬鹿にウスウス気付いたところを見計《みはか》らってワッと笑わせて、万事OKの博多二輪加にして行く手腕に至っては、制電《せいでん》の機、無縫《むほう》の術、トテモ人間|業《わざ》とは思えなかった。通夜の晩などに湊屋が来ると、棺の中の仏様までも腹を抱えるという位で、博多魚市場の押しも押されもせぬ大親分として、使っても使っても使い切れぬ金《かね》が、二三万も溜まっていようかという身分になった。そうして篠崎仁三郎の一生はイトも朗らかに笑い送られて行ったのであった。

 しかも天の配剤というものは誠に、どこまで行き届くものかわからないようである。その篠崎仁三郎の一生が、あまりにも朗らかであり過ぎたために、その五十幾歳を一期として死んで行く間際に当って一抹の哀愁の場面が点綴《てんてつ》されることになったのはコトワリセメて是非もない次第であった。
 しかもその悲哀たるや尋常一様の悲哀でなかった。笑うには笑われず、泣くにはアマリに非凡過ぎる……といったような、実に篠崎仁三郎一流のユーモラスな最期を遂げたのであった。それは地上、如何なる凡人、又は非凡人の最期にも類例のない……同時に如何なる喜悲劇、諷刺劇の脚本の中にも発見出来ない、セキスピアもバナードショオも背後に撞着《どうちゃく》、倒退《とうたい》三千里せしむるに足る底《てい》の痛快無比の喜悲劇の場面を、生地《きじ》で行った珍最期であった。
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…註曰…篠崎仁三郎氏の晩年には、他人ばかりの寄合世帯で一家を作っていたために、色々と複雑な事情が身辺にまつわり附いていたが、ここにはそのような事情の一切を省略し、それ等の中心問題となっていた事実のみを記載するつもりである…。
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 篠崎仁三郎氏が五十四の年の春であったか……腎臓病に罹《かか》って動きが取れなくなった。そこで自然商売の方も店員任せにして自宅で床に就いていたが、平常《へいぜい》でさえ肥っていたのに、素晴らしく腫れ上ってまるで、洪水《おおみず》で流れて来たみたような色と形になってしまった。瞼《まぶた》なんか腫れ塞がってしま
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