癖《くせ》がありますからね。その隙《すき》に入れるんだろうと思うんですが……僕が頂いている鎮静剤はステキに苦いでしょう。おまけにプンと臭《にお》いがするでしょう。ですから「茶精」が仕込んで在るのが解らないんです。
 エッ……そんな悪戯《いたずら》をする理由ですか。
 それあ解り切っているじゃありませんか。貴女はまだ不眠症にかかった事が無いんですね。そうでしょう。……いつもかも、睡《ね》むくて困る……アハハ……だから不眠症患者の気持がわからないのですよ。
 ……こうなんです。アイツは僕が先生の注射のお蔭でグーグー眠っているのを見ると、妙に苛立《いらだ》たしくなって、癪《しゃく》に障《さわ》って来るのです。そうして終《しま》いには殺してしまいたいくらい憎らしくなって来るんです。
 イイヤ。そうなんです。これが不眠症患者の特徴なんです。つまり極端なエゴイストになってしまうんですね。いくら眠ろう眠ろうと思っても、思えば思うほど眠れない事がわかって来ると、だんだん気違いみたいな気持になって来るんですよ。……世界中の人間が一人残らず不眠症にかかって、ウンウン藻掻《もが》いている真中《まんなか》で、自分一人がグーグー眠れたらドンナにか愉快だろう……なんかと、そんな事ばっかりを、一心に考え詰めている矢先《やさき》に、横の方から和《な》ごやかな寝息がスヤスヤ聞えて来たりなんかしたら、最早《もう》トテモたまらなくなるんです。神経が一遍に冴え返ってしまって、煮えくり返るほど腹が立って来るんです。聞くまいとしてもその寝息が一つ一つにスヤリスヤリと耳の奥に沁《し》み込《こ》んで来る。そのたんびに腹立たしさがジリジリと倍加して行く。しまいにはその寝息の一つ一つが、極度に残忍な拷問《ごうもん》か何ぞのように思われて来て、身体《からだ》中にビッショリと生汗《なまあせ》がニジミ出て来るのです。そうして、その寝息をしている奴を殺すか、自分が自殺するか、二つに一つ……といったような絶体絶命の気持になって、あっちに寝返り、こっちに寝返りし初めるのです。アイツは僕のために、毎晩そんな気持を味わせられているんです。おまけに僕は肥厚性鼻炎なんですから、眠ると夜通しイビキを掻《か》くでしょう。その上に相手は個人主義一点張りの支那人と来ているんですから、一層たまらない訳でしょう。
 ですからアイツはその茶精を使って、僕を絶対に眠らせまいとしているのです。そうして僕を次第次第に衰弱させて、殺して終《しま》おうと巧《たく》らんでいるのです。
 イヤ。それに違い無いのです。僕は昂奮《こうふん》なんかしていません。キットそうなのです。駄目です駄目です。僕の空想なんかじゃありません。……この室《へや》に居ると僕はキット殺されます。……どうぞ助けると思って僕を他の室に……エッ……室が満員なんですって? そんなら野天《のてん》でも構いません。どうぞどうぞ後生ですから、僕を別の室に……。
 ……何ですか。崑崙茶の由来ですか。……貴女は御存じ無いのですか。
 ヘエ。崑崙茶がドンナお茶か見当が付けば、中毒を解くのは何でもない。……成る程。植物性の昂奮剤は色々あるから、話をよく聞いて見ない事には見当の付けようがない。……そんなものですかねえ。……そんなら訳はないでしょう。その留学生が持っている「茶精」を取上げて分析してみたら直ぐに判明《わか》るでしょう。
 ……成る程。隠している処がわからないと困る……それもそうですね。キット魔法使いみたいな奴に違い無いのですからね。……そればかりじゃない。注射で眠っている奴を途中で起すと、利《き》き残った薬が身体《からだ》に害をする……そんなもんですかねえ。ヘエ……。
 実は僕も崑崙茶の成分なんか知らないんですがね。イイエ。与太話なんかじゃありません。そのお茶に関するモノスゴイ話だけなら、ズット以前に何かの本で読んだ事があるんですが……僕はモトから支那の事を研究するのが好きでね。支那は昔から実に不思議な国ですからね。僕の憧憬《あこがれ》の国といってもいい位なんです。今度の卒業論文にも支那の降神術に関する文献の事を書いておいたんですが……。
 ヘエ。貴女《あなた》も支那のお話がお好きですか。御祖父《おじい》さんが漢学者だったから……ああそうですか。それじゃ聞かして上げましょうとも。しかし、他の話なら兎《と》も角《かく》、崑崙茶の話だったら、その御祖父様から、最早《もはや》、トックの昔にお聞きになっているかも知れませんがね。有名な話ですから……ヘエ。全く御存じ無いんですか。妙ですね。それじゃ貴女が思い出されるかどうか話してみましょう。
 しかしその支那人が眼を醒ましやしないでしょうか。ヘエ。明日《あす》の朝まで大丈夫。そうですか。それじゃお話しましょう。まあ腰をかけて下さい。
 貴女は四川《しせん》省附近に、お茶で身代《しんだい》を無くした人間が多い事を御存じじゃ無いですか。ヘエ。それも御存じ無い。アノ附近に限られているのですからかなり有名な事実なんですが……。
 エエ、そうです。随分珍妙な話なんです。酒や女で身代限りをするのなら当り前ですが、お茶の道楽で身体《からだ》を持ち崩して、破産するというのですから、馬鹿馬鹿しいのを通り越しているでしょう。トテモ支那でなくちゃ聞かれない話なんです。
 御存じの通り支那人という奴は……聞えやしないでしょうね……チャンチャンという奴は、国家とか、社会とかいう観念となると全然無いと云っていい位に、個人主義的な動物ですが、その代りに私的の生活に関する、享楽《きょうらく》手段の発達している事といったら、世界一と断言していいでしょう。着物でも、住居《すまい》でも、料理でも、酒でも、香料でも……ね……御存じでしょう……エロの方面でも何でも、個人的な享楽機関と来たら、四千年の歴史を背景《バック》にしているだけに、スバラシイ尖端《せんたん》的なところまで発達を遂げているんです。
 ……ですからタッタ一つのお茶といったような問題に就《つ》いても、ドエライ研究が行き届いているに違い無い事が、すぐに想像されるでしょう。
 全くその通りなんです。しかも日本人なんかがイクラ想像したって追付《おいつ》かない位、メチャクチャな発達を遂げているのですが、その中でも亦《また》、特別|誂《あつら》えの天下無敵の話っていうのが、この崑崙茶の一件なのです。
 先ず、支那の奥地の四川《しせん》省から雲南《うんなん》、貴州《きしゅう》へかけて住んでいる大富豪の中で、お茶の風味がよくわかって、茶器とか、茶室とかの趣味に凝《こ》り固まった人間が居るとしますかね。又は酒や、女や、阿片や、賭博なんかでも、あらゆる贅沢《ぜいたく》をし尽した道楽気の強い人間が、今度は一つ、お茶の趣味に深入りしてやろうと決心したとしますかね。いいですか。そこで何でも彼《か》でも良《い》いお茶良いお茶と金に飽《あ》かして、天井《てんじょう》知らずに珍奇なお茶を手に入れては、それを自慢にして会合を催したり、ピクニックを試みたりして行くうちには、キット崑崙茶を飲みたいというところまで、お茶熱が向上して来るのです。……むろん崑崙茶といったら、お茶仲間の評判の中心で、魅惑《みわく》のエースと認められている事だし、お出入りのお茶屋が又チャンチャン一流の形容詞沢山で……崑崙茶の味を知らなければ共にお茶を談ずるに足らず……とか何とか云って、口を極《きわ》めて誘惑《ゆうわく》するんですから、下地のある連中はトテモたまりません。それでは一つ……といったような訳で、思い切り莫大なお金をお茶屋に渡して、周旋を頼むことになるのです。
 ところで崑崙茶を飲みに行く連中が、雲南、貴州、四川の各地方の都会に勢揃いをして出かけるのは、大抵正月過ぎから二月頃までの間だそうです。つまり崑崙山脈までの距離の遠し近しによって、出発の早し遅しが決まるのだそうですが、その行列というのが又スバラシイ観物《みもの》だそうです。
 真先《まっさき》に黄色い旗を捧げた道案内者が、二人か三人馬に乗って行くと、その後から二三匹|宛《ずつ》、馬の背中に結び付けられた猿が合計二三十匹、乃至《ないし》、四五十匹ぐらい行くのです。その間間《あいだあいだ》に緑色の半纏《はんてん》を着た茶摘《ちゃつみ》男とか、黄袍《おうほう》を纏《まと》うた茶博士《ちゃはかせ》とかいったような者が、二三十人|入《い》り交《まじ》って行くのですが、この猿が何の役に立つかは後で解ります。それから些《すく》なくて三四台、多くて七八台から十台位の、美事に飾り立てた二頭立の馬車が行くので、その中に崑崙を飲みに行く富豪だの貴人だのが、めいめいに自慢の茶器を抱えて乗っている訳ですが、この時に限って支那富豪に附き物のお妾《めかけ》さんは、一人も行列の中に加わっておりません。全く男ばかりの行列なんだそうですが、その理由も追々《おいおい》とわかって来るでしょう。
 その後から金銀細工の鳳凰《ほうおう》や、蝶々なんぞの飾りを付けた二つの梅漬《うめづけ》の甕《かめ》を先に立てて、小行李とか、大行李とかいった式の食料品や天幕《テント》なんぞを積んだ車が行く。その後から武器を持った馬賊みたような警固人が、堂々と騎馬隊を作って行くので、知らない者が見ると戦争だかお茶飲みだかチョット見当が付かない。ちょうど阿剌比亜《アラビヤ》の沙漠を渡る隊商ですね。とにかくソンナ大騒ぎをやって、新茶を飲みに行こうというんですから、支那人の享楽気分というものが、ドレ位徹底しているものだか、殆《ほと》んど底が知れないでしょう。
 彼等はそれから嶮岨《けんそ》な山道を越えたり、追剥《おいはぎ》や猛獣の住む荒野原を横切ったり、零下何度の高原沙漠を、案内者の目見当一ツで渡ったりして、やがて崑崙山脈の奥の秘密境に在る、遊神湖《ゆうしんこ》という湖の近くに到着するのです。そこいらは時候が遅いので、ちょうどその頃が春の初めくらいの暖かさだそうですが、その景色のよさといったら、実に何ともカンとも云えないそうですね。
 詳《くわ》しい事は判然《わか》りませんが、その遊神湖という湖の周囲には、歴史以前に崑崙国といって、素敵に文化の進んだ一つの王国があったそうです。ところが、その国民は極端に平和的な趣味を愛好した結果、崑崙茶の風味に耽溺《たんでき》し過ぎたので、スッカリ気力を喪《うしな》って野蛮人《やばんじん》に亡ぼされて終《しま》ったものだそうです。今でもその廃墟が処々の山蔭や、湖の底からニョキニョキと頭を出しているそうですが、その周囲には天然の森が茂り、高山風の花畠が展開して、珍らしい鳥や見慣れぬ蝶が、長閑《のどか》に舞ったり歌ったりしている。底の底まで澄み切った青空と湖の中間には、新鮮な太陽がキラリキラリと回転している……といったような絵にも筆にもつくせない光景が到る処に展開している。その中でも一番眺望のいい処に、各地方から集まった隊商たちは、先を争って天幕《テント》を張《は》りまわすと、手に手にお香《こう》を焚《た》いたり、神符《しんぷ》を焼いたりして崑崙山神の冥護《めいご》を祈ると同時に、盛大なお茶祭を催して、滅亡《ほろ》びた崑崙王国の万霊を慰めるのだそうですが、これは要するに、迷信深い支那人の気休めでしかないと同時に、お茶の出来る間の退屈|凌《しの》ぎに過ぎないのでしょう。
 一方に馬から離れた茶摘男たちは、一休みする間もなく各自《めいめい》に、長い長い綱を附けた猿を肩の上に乗せて、お茶摘みに出かけるのです。鬱蒼《うっそう》たる森林地帯を通り抜けると、巌石《がんせき》峨々《がが》として半天に聳《そび》ゆる崑崙山脈に攀《よ》じ登って、お茶の樹を探しまわるのですが、崑崙山脈一帯に叢生《そうせい》するお茶の樹というのは、普通のお茶の樹と種類が違うらしいのです。皆スバラシイ大木ばかりで、しかも、切って落したような絶壁の中途に、岩の隙間を押分けるようにして生《は》えているのだそうですから、猿でも使わない事には、トテモ危険で近寄れない訳
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