らぬ事であると云ってもいい位である。
文化趣味からバラック趣味が生れたのか、バラック式が文化式の元祖なのか、その辺はまだ研究中であるが、現在東京市の内外で見受ける文化住宅には、バラック建築の余興位にしか見えないのが多い。
先ず暗い色のセメント壁に、白いペンキ塗りの窓がある。そこへ生蕃人の腰巻見たようなカアテンがブラ下って、その蔭に十五銭位の草花の鉢が置いてあれば、間違いない、文化住宅と云ってよろしい。
第二の条件は、文化住宅のどこかに立派な書物を詰めた上等の本箱が光っている事で、これは説明するまでもなく是非必要である。床の間に真黒い軸をかけて、前に品のいい花を活けた精神修養式の趣味は時代遅れである。新しい智識や情緒を詰込んだ金文字の権威を見せるのは、文化住宅として当然の心掛けでなければならぬ。
近頃活躍し出した出版界が何々全集、何々叢書と矢鱈《やたら》に金文字気分を煽るのは、主としてこの流行を当込んでいるものと考えられる。
第三の条件は甚だ怪《け》しからぬもので、仁義道徳はもとより国体にも背くのであるが、最も大切な条件だというからイヤでも書いておかねばならぬ。即ち文化生活に老人の必要を認めない事で、その次は成るべく子供のいない事である。
文化生活の片隅に老人がウロウロしていたり、子供がワイワイ云っていたりしては、「文化」の意義をなさぬのだそうな。記者の如き親孝行者は実に憤慨の余り涙がこぼるる次第である。
第四の条件は、前のと違って一寸愛嬌がある。文化生活には犬か猫か何かが是非一匹いなければならぬというのである。
これは一つには装飾や楽しみの意味もあるが、今一つには、こんなものを可愛がっていると自然と人間の優越感を享楽する。同時に彼等の自然な動作から、極めてデリケートな或る神秘的のヒントを受けるので、文化の文化たる所以が一層高潮されるのだそうな。
……と或る文士から説明を聞いたが、記者には何の事かわからなかった。或は頭のいい読者諸君にもわからぬかも知れぬ。しかし、わからなくとも事実は事実である。
或る大きな活動写真の撮影場《セット》に行って見ると、九官鳥、鸚鵡《おうむ》、インコ、紅雀、カナリヤ、※[#「奚+隹」、第3水準1−93−66]《にわとり》なぞが籠に入れて備え付けてある。これは新派の文化生活の場面を撮る時に、是非共こうした鳥籠を持ち込まなければ納まらぬからだそうである。
又、東京市中をまわって見ると、新しい鳥屋がかなり多い。這入って話を聴いて見ると、「震災後、小鳥道楽は下火になりました。鶉《うずら》はもとよりの事、鶯なぞも古くから研究している方がないでもありませんが、次第に廃《すた》れて行くようです。一番小鳥を余計にお買いになるのは若い御夫婦連れで……」という話。直接文化住宅をのぞいて見ても、大抵は何かほかの動物が付きものになっているようである。
「文化文化」と啼く鳥がいたら、どれ位歓迎されるであろう。
こうなると「文化」の意味が一層わからなくなる。何の事はない。文化生活という事は、老人や子供を人間世界から追い出して、代りに禽獣や書物を取り入れた事になる。書物が親の代り、禽獣が子供の代りでもするのであろうか。とても当り前の教育程度では要点が掴みきれぬ。
ところがその掴まれぬところがいいかして、猫も杓子《しゃくし》も文化文化とあこがれている有様は、さながらに青空を慕う風船玉よろしくである。
こうして昇って昇って昇り詰めたら、日本はおしまいにどこへ持って行かれるだろうと心配になる位である。
こんな風船玉のようなフワフワした文化気分が、例のバラック気分と心安いのは云う迄もないので、東京人の魂はバラック生活と文化生活との間をフラ付いている。商売でも風俗でも何でもが、大体に於てこの気分の中で色めいていると見てよかろう。
学生生活の色々
東京の学生は全国のあらゆる種類と階級を網羅している。
その中で中流、即ち腰弁と同等の生活をしているのは、全体の何分の一か何十分の一位であろうが、しかし大体から見て中流生活と云ったら中《あた》らずと雖《いえど》も遠からずであろう。
学生の生活といっても、学校の種類に依って非常な差があるが、その学校の種類が驚くべき多数に上っているからなかなか調べにくい。
その筋の帳面を調べても驚かされるが、なかなかそれ位の事でない。昔風の寺小屋式から男女の大学まである。これを官立、私立、営利、非営利、年齢別、性別、専門別と区別して来たらとても大変である。
更に昨日《きのう》出来て今日潰れる式のもあれば、地方の人には学校と見えて、東京に来て見ると事務所だけというようなのもある。
その中で大学と専門学校程度の学生の生活を見当にして寸法を測って見る。一つはそのほかのが調べにくいからでもあるが、今一つには彼等の生活を学生生活の華として敬意を払ったわけである。
東京に家のある学生の生活は一寸見当が付かぬが、為替党にもいろんな階級がある。一ヶ月二百円以上も送って来るのが居るかと思うと、労働して大学に通った上に、故郷の弟に四円|宛《ずつ》送っている非為替党もある。
毛色の変ったのでは、春画を描いて学資を作って美術学校を出たのが居る。後家さんの男妾になって専門学校に通っているのがある。米相場が名人で親仁《おやじ》にしかられしかられ語学をやっているのが居る。養子政略、入り婿政略で、学校を出たあとは野となれ山となれ式の生活や、納豆屋の元締をして奢《おごり》を極めている大学生なぞ、調べるとなかなか面白いがここには略す。
何しろ学生だから、年が若くて元気で、無責任な延び縮みが出来るから、これ位面白い生活をやっているものはない。
先ず普通八九十円以下五六十円以上の為替生活者が大多数で、下宿料が三四十円位、汚い間借りで十円から十五円どころであろう。但、間借りは飯抜きだから、下手を遣ると下宿以上になる。尚このほかに月謝、書物代、洋服代なぞが時々足を出すのは止むを得ない向きもある。こんな「足」が本当にこんな足なら、先ず音《おと》なしい足であろう。
この程度の学生を先ず中流生活者として、その純小遣いを十五円乃至四十円位に見積る。彼等の驚くべき贅沢さや質素さは皆この範囲から出て来るのである。更に質屋や古本屋、又は友人間の貸し借りなぞいうのを加えると、一層活躍の範囲が広まることになる。
しかも彼等の小遣いは、普通の中流生活者の小遣いのように世間的の意味を含んでいる分量がまことに少い。頭を使わずに只漫然と遣い棄てるのが多いので、この点から云うと彼等の生活は中流の中《うち》でも上流に属している。
その上に彼等は、当り前に学校に通って当り前に勉強さえしていれば、首の心配は無論ない。只怖いのは落第ばかりとなる。それも十中八九は為替の多寡に影響しないのだから、真に不景気知らずと云ってよかろう。
こう云うと又、記者の非常識を攻撃する諸君が出て来るかも知れぬ。
「新聞記者なんてものは筆の先でどんな事でも書く。いくら学生だって、不景気を知らないでどうなるもんか。第一下宿の飯が不味《まず》くなるから、時々滋養分を摂《と》らないと頭がわるくなる虞《おそ》れがある。フレッチャー式なぞを遣ったら落第するにきまっている。空気も悪いから郊外へ行く必要があるし、ホコリが非道《ひど》いからロイド眼鏡も奮発せねばならぬ。雨が降ると靴カバーが利かないから、八円のゴム靴を買わなくちゃならぬが、そいつが又じきに駄目になる。電車はコムし書物はよごれるしで、オツユの出る弁当箱は持てないし、嗜眠《しみん》性脳炎がまた流行《はや》っているので、一寸風邪を引いても医者に見せなくちゃならないし、五十円や百円の仕送りでは人間らしい気持ちで勉強は出来やしない……」
承われば一々御尤も千万であるが、さて街頭に立って諸君の生活振りを拝見すると……。
制帽と鳥打帽の手品
近頃東京の往来を歩いて見ると、学生仲間に鳥打帽が非常に流行している事に気が付く。
学生だから鳥打帽を冠るのが当り前かも知れぬが、それが又タダの鳥打帽でない。気をつけて研究すると実に変妙不可思議の鳥打帽で、支那や印度の魔術師でも眼をまわす位である。
勿論、その鳥打帽は普通の鳥打帽で、価格の上下や型の変化こそあれ種も仕かけもない。しかもその鳥打帽でどうしてそのような奇術を使う事が出来るかという事は、苟《いやしく》も東京の学生たらんもの片時も忘るる能わざる研究問題であるのみならず、地方に居る父兄のためにも実に見逃すべからざる参考材料であろうと信ずる。
前口上はこれ位にしておいて、実地の使用法を取り立てて御覧に入れる。
第一、彼等学生が、下宿屋や又は預けられ先を出る時に、学校の制帽を冠って出るものは殆ど九牛が一毛と云ってもいい位である。学校に行く時も、散歩に行く時も通じてそうなので、その十中八九は鳥打帽を冠って行くにきまっている。
ところで登校の際に冠って行く鳥打帽は、私立の学校だとそのままズンズン這入って行けるのが多いが、官立の学校だとそうは行かぬ。どうするのか知らんと運動場をのぞいて見ると、これはしたり。校庭一パイに散らばっている生徒の頭には鳥打帽は一ツもない。皆キチンとした制帽を冠っている。これが鳥打帽の第一の手品である。
この手品の種はどこにあるかというと、彼等の制帽の構造にある。近頃の学生の制帽はどれもこれも、一つとして昔のような頑固な枠を入れたのはない。馬の尻毛や亜麻の極《ごく》柔かい弾力の強いもので、目庇《まびさし》までも薄い上等のエナメル皮や何かが使ってある。小さく押し曲げさえすればズボンのポケットにでも何でも這入るから、鳥打帽と両方持っていてもちっとも邪魔にならない。すなわち校門を這入る時には制帽を冠り、電車に乗る時には鳥打を冠る位の手品は何でもないので、只その都度魂を入れかえるのが面倒臭いだけになる。但、そんなに手早く魂を入れ換え得るかどうかは、帽子と違うからちょっと外から見わけにくい。そこを付け込んで彼等は盛に制帽と鳥打帽を使いわける。
使いわけると云っても取り換えるだけの事だから、ちょっと考えると何でもないようであるが、なかなかどうして、大学を卒業してもこの鳥打帽使いわけの奥義に達しないのがいくらでも居る。ウッカリすると学校のどの科目よりも六ヶ《むずか》しいかも知れぬ。
先ず見易いところから例を取ると、真面目な家庭を訪問する時には制帽を冠る。散歩する時には無論鳥打帽である。
儀式ばった処へ行くのには制帽で、活動を見に行く時は鳥打でなければ工合が悪いらしい。
お医者に診てもらいに行く時には制帽がよろしいが、弁当代りにサンドウィッチを喰いに行く時は鳥打帽にかわる。
割引切符を買う時は無論制帽の方が都合がいいが、汽車に乗り込んでしまうと必要はない。
教科書を買う時の気分は制帽であるが、Y書を買う時の心理状態は鳥打の下に隠れねばならぬ。
故郷の親元に送るらしい写真は大抵制帽を冠るので、顔付きが似なくて困ると写真屋が云うが、鳥打帽のはどんな処に送るのやら……。この辺になると大分手際が鮮かな方であろう。
女学校の運動会見物、慈善市《バザー》、野外劇《ペーゼント》、クリスマス、その他の催しのお手伝いなぞには、制帽の方が殊勝らしくていいそうであるが、それが済んだ夜の帰りがけに、思う人と連れ立って行く時は鳥打帽を冠るべしだそうである。
そのほか展覧会、校友会、由緒ある会、出たらめの会なぞ、それぞれ鳥打帽と制帽の使いわけ方がある。その冠って来た帽子が制帽か鳥打帽であるかに依って、その会合を理解しているかいないかがわかるという位デリケートな研究を要するので、無暗《むやみ》に上等の新流行で身のまわりを飾って、ハイカラと心得ているような連中は一ペンに落第してしまう。
学生と見られぬため
東京の学生の制帽と鳥打帽の使い分け方を街頭から見ただけでもかなりいろいろあるが、単に鳥打帽だけの冠りわけでもちょっと研究を要
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