「腰弁精神」を穢《けが》すと云って差支えない。正真正銘の腰弁である記者はいつも衷心から憤慨しているものである。
 閑話休題……ここでは月給取りの総称を便宜と習慣上腰弁と云っているが、今まで見渡して来た生活は、その腰弁中の腰弁の生活である。
 彼等の収入は先ず百円内外で、ウッカリしなくとも、事実上労働者以下の生活と云った方が早い。
 この頃の労働者の間違いない収入が、月に見積って最低百円とする。腰弁も同じく百円取るとしても、こっちは身なりが要るのと、教育があるために労働者程度の交際は出来ないので、その生活の程度はイヤでも労働者より落ちなければならぬ。
 震災後、東京市中到る処に軒並べて(法螺《ほら》ではない)出来た安飲食店や弁当屋、カフェー等は彼等の唯一の慰安所でなければならぬが、そんな処でビールの満《まん》を引いたりしているのは大抵稼ぎ人風の男である。腰弁風のは居ても、独身者らしい若いので、隅ッ子に小さくなっているのが多い。

     中流の着物道楽

 中流以上の腰弁、ここでは主として男となると、こんな安飲食店や何かに来ない。下宿生活にしろ住宅生活(すくないようで案外多い)にしろ、東京市内ならばダリヤの一鉢、市外ならばコスモスの十四五本も植えた庭を睨めて納まっている。這入《はい》るにしても相当の体裁をしたカフェーや飲食店で、アイスクリームや曹達《ソーダ》水位は平気で嘗《な》めたり吸ったりしている。
 この連中の最近の道楽が、前に云った着物道楽と文化生活である。強いて階級を付くれば、着物道楽が二百円級、文化生活が三百円級の理想と云えようか。
「東京の中流階級の男の風采がジミになった。その基調色は茶や黒又は鼠色で、昔のような派手なスタイルは下火になった」と或る新聞に出た。これは万人がそう認めているところである。「日本の中央都市にこんな堅実な風俗が流行するのは慶賀すべき現象である」とさえ云っている。
 果してそんな結構な流行かどうかは別として、そのジミになった彼等の服装をよく気をつけて見ると、決してジミでないことがわかる。
 如何にも色だけは渋い目立たぬ柄を選んであるが、その生地を見ると、田舎者の肝を潰すようなのが珍らしくない。こんな高価な服を着る人が、何でムザムザ電車に乗るのだろうと思うのさえある。つまり、皆がいい服を着るようになったために、自然と柄が高等になったので、決して渋い柄が流行する訳でない。高価な服が流行し始めたために、安い服までも渋い色調が流行するようになったと見るべきである。
 御蔭で派手なヤンキースタイルは殆ど一掃された。水蒸気の多い日本の空気と、日本人の皮膚の色とに、最もよく調和する洋服が流行するようになった。結構といえばこの方が結構であろう。
 震災直後の秋は別であるが、今年も春から秋へかけて、浴衣《ゆかた》一枚の帽子無し、足袋《たび》なしの連中が下町の通りを毎晩一パイにゾロ付いた。彼等は他所《よそ》行き一張羅にばかり全力を注いでいるのだ。
 も一つ例を挙げると、昨年の冬まで各種の雑貨店は安物全盛であったが、この頃では全然一変して高価な物をかなり多く並べる。五円級以上のワイシャツ、十円級以上の冬帽子は珍らしいものでなくなった。就中《なかんずく》プラチナの腕時計が如何に彼等腰弁の仲間に流行しているかは、一寸東京に行った人でもすぐに眼に付くところである。
 彼等の中でも独身者は二百円以上取りながら……そうして相当の年輩となりながら、この身のまわり道楽に見込まれて、依然として洗濯を他人任せにしているのが珍らしくない。これには性の問題も影響している。自己紹介の必要の度合も昔よりも高まったというような理由もあろう。しかし、とにもかくにもこの道楽は忘れられないと見えて、月給の力を出来るだけこちらに注ごうと試みていることは事実である。

     駱駝《らくだ》の胃、猿の頬

 この中流階級の身のまわり道楽……一方から見れば渋い物流行は、呉服屋の宣伝でもなければ、その筋の奨励でもない。矢張り過般の大震災の影響と見るのが一番当っていると思う。
 こんなところでウロ覚えの進化論なぞを持ち出すのは工合が悪いが、説明に便利だから一寸失敬さしてもらう。何かの本にこんな事があった。
「生きているものは一度でも或る変災に出会うと、二度とそんな眼に会いたくないという消極的な気もちと、これに抵抗してやろうという積極的な気持ちで、習慣や何かを一変させる事がある。これは一面から見ればたしかに進化に相違ないが、一方から見れば退化としか見られぬ事が多い」
 この事実を最も著明に証拠立てたのが今度の地震であった。
 今度の地震で、あらゆる家が焼けたり、たおれたりして、多勢の人が逃げ迷うのを見た東京人は、家とか財産とかいうものがまるで当てにならないものであると感じた。
 さなきだに東京の人間は、江戸の昔から家に対する執着心が薄かった。
「一人もの店賃《たなちん》程は内に居ず」
「煤掃《すすは》きも面倒臭いと移転する」
 で、家に対する執着が誠に少ないところへ、大地震と大火事で肝の潰れる程の教訓を受けたのだからたまらない。その後も引き続きグラグラと来るたんびに、何でも身に付く以外のものは無くなっても構わないようにという気持ちになって来た。
 一方、震災後地方から押し上った連中も、早速この風《ふう》にカブレてしまった。コレという家財も無い身の軽い生活がこの道楽に陥り易い事は云う迄もない。況《いわ》んや「風采即信用」という風俗の格言が滔々として世を蔽いつつあるに於てをやである。
 つまり、こうしておつとめ服の身のまわりにさえ金をかけておけば、借金取りでも滅多に寄り付けぬ。質に置くにも都合がいい。そうして素破《すわ》という場合にはいつ何時でも、手と身とツンツンで飛出しさえすればこっちのものになるというわけである。
 支那人が股倉に金を貯め、駱駝が胃袋に水を溜め、猿が頬ペタに袋を下げ、牛が胃袋を四つ持っているところを、日本人だけに着物で気前を見せているのであろう。
 進化か退化か知らないが、東京人がこうまで魘《おび》えてちぢこまっているかと思うと情なくもある。東京の新聞に大きな標題《みだし》を付けた地震の学説がこの頃まで出ているところを見ると、こんな知識階級のビクビク加減は地方人の想像以上であるらしい。
 着物道楽……独身主義の延長……という、虚栄に囚われた女にでもありそうな傾向が男の中に流行している……女は無論の事……というこの二ツが東京にどれだけの独身生活者を殖やしているか、そうしてそれがどれ位まで東京の風俗を乱しているかは、話の筋をそれるから後まわしにする。
 扨《さて》……こんな着物道楽の連中がいよいよ身のまわりを充実さして、新しい「アアラ吾が君」と同棲したとなると、今度は文化生活が理想となって来る。
 つまり着物道楽は独身者《ひとりもの》の心理表現で、文化生活は夫婦者の理想の発表とでも定義しようか。

     文化とは「ブル化」?

 東京人の憧憬する文化生活を研究するには、先ず「文化」という言葉の定義からきめてかからねばならぬ。
 文化という言葉はバラックと同様あんまり有触れ過ぎて、どんな事を意味するのか訳がわからなくなっている。
 文化生活、文化村、文化住宅、文化机、文化|竈《かまど》、文化タワシ、文化丼、文化|饅頭《まんじゅう》、文化|煎餅《せんべい》、文化まめとなって来ると、どこが文化なのか見当が付かぬ。
 縁日に出ている停電用の燭台や電球蔽い、書翰箋やインキ壺まで文化と名づけてある。かと思うと、書物には文化出版、売り出しは文化的提供、文化的家具一式、叮嚀親切薄利多売は文化的広告なぞいう看板がある。
 つまり安くて便利で重宝でハイカラなのが「文化」かと思うと、そうでもないらしい。
 この頃、文化納豆というのが出来たというから八百屋(東京の)に行って見せてもらうと、羊羹《ようかん》包の位なヘギの折りに這入っていて一個十銭である。普通のが五銭だから、よっ程上等だろうと思って喰って見ると、只の納豆で別にかわった事はない。只|高価《たか》いだけである。
 生れつき頭の悪い記者は、念のため今一度買った八百屋に行ってきいて見たら、「今までの藁苞《わらづと》に這入っているのでは、そのままお膳に乗っけられませぬ。つまり文化的でないというので」と云う。「じゃどうして高価《たか》いのだ。この箱代が五銭するのかね」と聴いたら、「新婚の御夫婦や何かは、大きな声でナットー屋アなんかとおっしゃりにくいと見えましてね、こちらがお気に召すらしいのですよ。エヘ………」と妙な文化式の笑い方をした。トテモワカラナイ。
 新聞の広告や何かに「文化的○○薬」だの「文化○○サック」なぞいうのを発見して、文化の意義をいよいよ怪しんでいると、或る横町で文化焼芋というのを発見した。近寄って見ると、皮を剥《む》いて丸焼きにしたところが「文化」なのだそうな。アライヤダ。イヨイヨ小三の落語式になって来た。
 この塩梅《あんばい》じゃ足を棒にして眼を皿にしても、「文化」の定義は見つからないと諦めた。
 ところが文化の方では、なかなかそれ位の事では承知しない。まだまだ沢山あるという。何だと聴いて見ると、必ずしも文字に書いてなくとも、文化の意義を含んでいるものが数限りない。近頃|八釜《やかま》しい「性教育」には立派な文化的意義があるので、女学校で教えるお料理に必ず出て来るテンピも、文化生活になくてならぬものだそうである。フライパンや紅茶沸かしは云うまでもない。
 こいつを今一層文化的にすると、
「御飯とお惣菜《そうざい》は女中が作るでしょう。漬物は売りに来るでしょう。お料理は取るでしょう。だから家事科なんて必要はないわ」
 という式になる。つまり奥様は一切手を濡らさないのが最高の文化なのだそうな。
 まだある。
 音楽なぞも文化生活には必要なものだそうで、楽譜や楽器の売れる事売れる事。よくきいて見ると、ハーモニカやシロフォネンなどは子供のオモチャで、マンドリン、ギタ、ヴァイオリン、洋琴やピアノなぞが本当の文化的価値があるものだそうだ。しかも昔なら、
「鐘一つ売れぬ日も無い江戸の春」
 というところを、今日では「ピアノ一つ」と改めて差支えない勢である。
 尤《もっと》も本当のピアノは高価《たか》いから、この頃では和製の手軽い安いのがドッサリ出来るからで、正にピアノ全盛になって来た。
 尤もこれはブンカブンカと鳴るからかと思うと、蓄音器も文化生活に必要なものだそうで、この頃では縁日なぞでもチーチーガアガアとレコードを売っている。
 まだまだ数え立てると限りもないが、要するにトドの詰まるところ文化生活の理想は何かと考えて来ると、彼等が学生や腰弁時代に口を極めて罵っていた、ブルジョアの金殿玉楼生活だという事になるようである。つまりそんなに早くブルにはなれないし、よしんばなれても近頃流行の社会主義が怖いから、止むを得ずいくらか安っぽいブル趣味に「文化」と名をつけて、お茶を濁した生活をしているのだとも見える。
 何の事だ、馬鹿馬鹿しい。それならそうと早く云えばいいに、「文化」だとか何とか今道心見たような名を付けるからわけがわからなくなる。
「ブル化」と云った方が早わかりするじゃないかと一時は思ったが、これは文化生活の内容を見ない前で、一度実際をのぞいて見たらナアール程と又首をひねらせられた。
 文化生活にはもっともっと深い意義がありそうである。頭の悪い記者にも気の付いた条件が三ツ四ツあるが、そのいずれもがなかなか意味深長である。

     老人と子供排斥

 文化生活とはどんなものかと、所謂《いわゆる》文化住宅をのぞきまわって見る。
 文化住宅は市内にもチラチラ見える。中野や大崎には集団を作っている。文化住宅の模型だけを並べている建築屋もある。
 そんなのを見てまわると、どれもこれもバラック趣味の凝り固まりである事が第一番眼に付く。文化生活の第一条件は、その住宅が必ずやバラック趣味でなければな
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