都には、そんな余地は滅多にない。出入りの田舎者に頼んで情を明かしてことづけるほかは、とりあえず流れて行く水にことづけて、あとかたもなく葬ってもらうよりほかに仕方がなかったのであろう。
 東京の中にはいくつも掘割がある。その橋や石垣、柳の下には隅田川から汐がさし引いている。この浄化作用は、こうした深刻な意味の巷の産物をも、不断に引き受けているのである。

     群れ飛ぶ都鳥

 隅田川が、その青黒い不可思議な力で、如何に江戸の住民に魅入っていたか。その川あかりが、如何に江戸ッ子を罪の子として堕落させて、秘密にその子孫を呪い殺していたか。
 その事実を裏書するものはまだいくらでもある。
 第一は徳川幕府が幾度も幾度も出した産児制限法の禁令である。これはおしまいまで無効に了《おわ》ったと認められているが、一面、このような禁令が度々出ただけ、それだけこの産児制限が烈しかったことを裏書しているのである。
 事実、こうした江戸文華の裡面の秘密を握って、喰って行く商売人が非常に多かったのである。いろいろな随筆、わけても極《ごく》平凡な明るい意味で、「医を仁術」と心得ている医師たちの記録には、彼等の職業を極度に攻撃したものが些《すくな》くなかった。それにも拘わらず彼等は、「必要の前に善悪無し」という程度の格言を信条として、益《ますます》盛に横行したらしい。
 その大部分は女医であったそうで、就中《なかんずく》中条流という堕胎の方法が最流行したと記録に残っている。そのほかおろし[#「おろし」に傍点]婆、御祈祷師なぞは勿論の事、普通の漢方医でも内々この医術を売り物にしていたと察せられる。一説に依ると、徳川時代のすべての医術の中で最も有効に発達したものはこの方法で、この方法の下手な医者は大家に出入りする資格は無かった。否、この手術だけ心得ていれば、あとは売薬を詰めた百味箪笥と、頭の形と、お太鼓持ちだけで、立派なお医者様として生活が出来たという位だから恐ろしい。
 このほか医者でも何でもなくて、のれん[#「のれん」に傍点]や看板に堕胎を業とする意味のものを染めたり、描いたりしているものがあったという。たとえば子持縞《こもちじま》に錠を染め出すとか、温州の種なし[#「種なし」に傍点]みかんの絵とか、山吹の花を表したものなぞである。
 そうした中でも、この種の商売を殆ど公然の秘密のように行っていたのは、今でもある悪姙婦預り所であった。つまり女医や産婆の宅あずかりである。殊に面白い――といってはわるいが、その預り賃が七八ヶ月間最低一両内外で、上は限りなし、大家のお嬢さんなぞで間違いの出来たのが、よく乳母の里へ預かるなぞいうことが物の本にも出ているが、実はここに来て始末したのが多かったそうである。そうしてその流した子は、一朱内外を添えて、隅田川のほとり、本所《ほんじょ》の回向院《えこういん》へ収めたという事が書き添えられている。
 しかしこのような冷酷な商売をする人非人が、果して約束通り残らず回向院へ納めたかどうか怪しいものである。これはその親に対するせめてもの気休めで、実は手軽く水に流したと考え得る理由が充分にある。
 この種の例は深く立ち入ったらどれ位あるかわからぬが、ここでは「江戸ッ子減少」の原因を明らかにするだけに止めておく。そうした都会の真ん中を流るる河は、いつもこうした呪わしい、忌まわしい使命を持っていることを説明するに止めておく。
 昨年の変災の折、あれだけの生霊を黒焦《くろこげ》にした被服廠――。
 その傍を流れて、あれ程の死骸を漂わした隅田川――。
 その岸に立つ回向院――。
 それ等はかほどまでに「江戸」を呪った……そうしてこの後も呪っている、或る冷たいたましいのあらわれに他ならないのである。
 ……墨堤の桜……ボート競漕……川開きの花火……両国の角力《すもう》や菊……扨《さて》は又、歌沢《うたざわ》の心意気や浮世絵に残る網舟……遊山船、待乳《まつち》山の雪見船、吉原通いの猪牙船《ちょきぶね》……群れ飛ぶ都鳥……。
 両国橋の上に立って、そうした行楽気分を思い得る人は幸福である。
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   建築交通の巻



     現代式の新東京人

「江戸ッ子」はこうして亡びかけている。
 山の手の智識階級も、下町のベランメイ党も、共々に昔の夢をなつかしみつつ影のように生き残っている。
 そのあとへ新しい「江戸ッ子」、すなわち「現代式東京人」が寄り集まって「新東京の新生面」を作りつつある。
 その新生面はどんな光彩《いろどり》を放っているか、どんな香霧《におい》を漂わしているか。
「バラック」という言葉は珍らしくなくなった。東京に行った人は飽きる程見ているように、バラック生活、バラック趣味、バラック的なぞといろんな熟語が出来て、
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