る知恵を出し……というのがあるが、その三分は三人持ち寄りの最後の財産であったろうと思われる。うちを空っぽにして遊ぶことばかり考えている……儲けた金で妻子を肥やすのをシミッタレと考えている心理状態がよくわかる。だから江戸ッ子のうちは繁昌しないのだ」
「江戸ッ子は道中をして帰って来ると、すぐに友達の処へ挨拶にまわる。その先から友達と一所に遊びに行って、道中の使い残しを空っぽにする。『久し振りうちに帰って、嬶《かかあ》珍らしさに出て来ない』と云われたくないために、こうした見得を張ったもので、詰るところ、こんな江戸ッ子の負け惜みが直接の産児制限となったわけだ。花柳病にかかって、間接に子種を亡ぼしたのは云う迄もないだろう」
 又或る獣医はこんな話をした。
「牝馬で競馬に出る位の気の勝った馬は、いくら種をかけても決して子を生みません。原因はわかりませんが、一種の神経作用かも知れません。江戸ッ子の女は勝ち気だと云いますから、自然子を生みかねるのでしょう」
 こんなのはいずれもうがち過ぎ、又は突飛な議論であるが、参考のため紹介しておく。勿論、いずれも一理屈あるのはあることである。

     江戸を呪う隅田川

 それはともかくとして、記者は江戸ッ子衰亡の事実を見たり、聞いたりする度毎に、あの隅田川を思い出さずにはいられない。否、あの隅田川の岸に立つ毎に、記者は、この河に呪われて刻々に減って行く江戸ッ子の運命を思わずにはいられないのである。
「富士と筑波の山合《やまあい》に、流れも清き隅田川」
 と奈良丸がうたい、
「向うは下総《しもうさ》葛飾郡、前を流るる大河は、雨さえ降るなら濁るるなれど、誰がつけたか隅田川ドンドン」
 と昔|円車《えんしゃ》が歌った隅田川――ドンヨリと青黒く濁って、東京の真中を渦巻き流るるあの隅田川が、昔も今も江戸ッ子の滅亡を呪うていようとは滅多に気が付く人はあるまい……と云うと、何だかエライ神秘的な由来でもありそうであるが、説明は頗《すこぶ》る簡単である。
 隅田川は昔から身投げが絶えぬ。都会生活に揉まれて、一種の神経衰弱に陥った人間が、彼《か》の広い、寂しい、淀みなく流るる水を見ると、吸い込まれるような気持ちになるのは無理もないであろう。しかし江戸の人口に差支える程身投げがあったら大変で、隅田川が江戸を呪っていると云うのはそんなわけではない。もっと深刻な意味があるのである。
 隅田川は昔から水ッ子の初まった処であった。
 水ッ子と云っても、その中には堕胎《おろ》した児、生れてから殺した子、又は捨て児(これも結局は同じ事であるが)が含まれている。しかもその数は統計にも何にも取られたわけのものでないが、江戸ッ子の人口減少の一半を引き受けたと認められているのだから恐ろしい。
 隅田川はこんな残忍な、つめたい流れなのである。
 但、この水ッ子の親は決して江戸ッ子に限っていなかったことを、ここに断っておかねばならぬ。
 旧藩時代の武家は皆きまり切った縁をたよって、子孫代々まで暮さなければならなかった。三百年近く太平の世が続いたために、彼等の大部分は加増を受ける機会もなく、只夢のように生れては死んだ。只恐るるのは家族の殖えることであった。その結果が産児制限となったことは云うまでもない。
 その次にはブル階級の江戸ッ子の風俗の堕落である。彼等が如何に奢《おご》りを極めたか、彼等の主人が如何に甚だしい道楽を試みたか、彼等の妻子や召し使いなぞが如何に風俗を乱したかは、江戸時代に現われた小説や芝居や絵を見てもわかる。その結果が忌まわしい手術、又は恐ろしい犯罪となって、幾万の生霊を暗《やみ》から暗《やみ》へ葬ったことであろうか。
 その次は一般市民の生活難である。
 前にも述べた通り、花の都の生存競争は生き馬の眼を抜く程激烈なものであった。その間に生存して行くのはとても生やさしいことではなかった。その結果、矢張り前のような恐ろしい習慣を、平気で行って行くよりほかに道が無い事は明らかである。
 なおまたこのほかに問題にせねばならぬのは、徳川幕府が江戸に於ける軟文学の流行をそれとなく奨励したことである。幕府は、参覲交代で江戸に集まって来る諸国の武士を意気地なくするために、こんな方法を執《と》ったと伝えられているが、これが永い間の太平と共に上下一般に染み渡って、極度にまで人心を堕落さした事は実に非常なものであった。不義者に同情し、心中に共鳴し(これは大阪の方が本家かも知れぬが)、野合を讃美する芸術が流行し、上下の隔ても思案も度外視した恋愛至上主義が一般に崇拝された。
 こうした「上下の隔てない」、又は「思案のほか」の花が結んだ因果の種はどうなったか。
 田舎なら木の根や石の下、草原なぞの到るところに葬ることが出来るが、名にし負う土一升に金一升の
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