た田舎っペイは、この一年の間に潮の如く東京市を眼がけて押寄せて来た。実に素晴らしい勢であった。
 彼等は生え抜きの江戸ッ子のように贅沢でなかった。その趣味は浅草程度で充分であった。彼等は古い江戸ッ子がバラック趣味を軽蔑し、オツな喰い物、意気な音締《ねじ》め、粋な風俗の絶滅を悲しんで、イヤになって引っ込んでいる間に、ドンドン彼等の趣味を東京市中に横溢させている。彼等の御機嫌を取るべく、東京市中到るところに流れ出て来た浅草趣味、又は亜米利加《アメリカ》風――安ッポイ、甘ったるい、毒々しいものに満足して、ドンドン東京の繁栄を作るべく働き始めた。
 彼等の耳には、江戸ッ子ということが、最早《もはや》古い時代の人間としか響かなくなっている。江戸趣味というものは、骨董的の価値しかないもののように考えられている。彼等はもうすっかり江戸ッ子を葬り去っているかのように見える。
 これに対して江戸ッ子は何等の反抗を企てようとしない。否、反抗力も何もなくなって、只《ただ》納豆売りの声や、支那ソバのチャルメラの声に昔の夢を思い出して満足しているように見える。
 しかしこれには又無理からぬわけがある。
 彼等江戸ッ子が如何に痩せ我慢で高く止まっていても、彼《か》の昨年の大変災に出会っては、かいもく[#「かいもく」に傍点]意気地がなくなったは止むを得ないところであろう。彼等はほかの非江戸ッ子……上は成金から下は乞食まで、あらゆる種類階級の人々と共に、一様に阿鼻叫喚の巷《ちまた》にさまようた。御同様に抱き合い、わめき合って、助かったり、死んだりした。
 死んだのはいいとして、助かったものはほかの非江戸ッ子以上に困ることになった。……というのは彼等の「かお」が利かなくなった事である。利くにも利かぬにも、町は茫々たる焼け野原となり、どっちを見ても見ず知らずの赤の他人となって、泣いてもわめいても追っ付かなくなったことである。

     宵越しの銭溜め

 東京に住んだ人は知っているであろう。壁一重向うは赤の他人である。引っ越しソバを配るだけの義理が済めば、あとはどこの馬の骨か牛の糞かといった風である。うっかりすると、借りたおして引っ越しされるような心配があるかと思うと、隣の喧嘩を二階から見ている冷やかな面白さもある。これを極端に云うと、「人を見たら泥棒」式で、すべてのつき合いが何となく現金式である。そこが又東京の住まいよいところで、同時に住みにくいところともなっている。これは東京が江戸の昔から諸国人の集まりであるのに原因していること云う迄もない。
 然るにその中でも純江戸ッ子だけは、「顔」という人類最高のパスを持っている。このパスの利くところは町内や市場、又は出入りの旦那やおやしきは勿論のこと、大きいのになると随分遠方の隅々まで利く。しかもこのパスは金ばかりでなく、いろんな意味にもパスとして使える。「何とかの何とかを知らねえか」と大きな眼を剥《む》くのは、このパスを見せているので、「宵越しの金は使わぬ」という気前も、このパスがあるから安心して見せられたものである。
 こうしたパスが利くようになった原因は、彼等が「町内」という故郷を持っているからで、その又ずっと遡った由来を尋ねると、旧幕時代の自身番や家主制度を育てた習慣ではあるまいかと思われる。
 とにかく大多数の江戸人が見ず知らずの赤の他人である中に、彼等ばかりは故郷たる町内を持っていた。その町はいくつかの大集団をなして下町を蔽うていたので、すくなくとも彼等の町内には「かお」が通っていたのである。
 それから今一つ。
 彼等兄い連の商売の二大中心は、何といっても神田と日本橋の両市場であるが、宵越しの銭を持たぬ彼等は、仕入れをするのにいつも「カリ」で押し通すほかはなかった。
 尤《もっと》もこの式の習慣は日本全国にあるのであるが、彼等の「カリ」はタチがタチだけによっぽどヒドかったらしく、しかもそれが又彼等のプライドと結び付いて、篦棒《べらぼう》に利くパスが出来上ったわけである。借用証文、小切手としては無論のこと、喧嘩でも仲裁でもこのパスで押通したもので、彼等の「刺青《ほりもの》」がこの「顔パス」の利き眼を一層高める意味を持っていたことは明らかである。
 もっともこのパスは彼等の器量に応じて通用の範囲も大小があるが、いずれにしてもこのパスが利く限り、彼等はどこへ行っても肩で風を切って歩けた。言葉を換えて云えば、この「かお」というパスが、彼等の精神的、又は物質的の生活の安定をドン底まで保証していた。維新後も同様にして今日に及んだので、昔ほどのことはなくとも、この習慣が残っていたには間違いない。
 そのパスがアッという間に灰になってしまった。パスが焼けたのではない。パスの利くところが無くなってしまった。タンカを切って
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