で、決して渋い柄が流行する訳でない。高価な服が流行し始めたために、安い服までも渋い色調が流行するようになったと見るべきである。
御蔭で派手なヤンキースタイルは殆ど一掃された。水蒸気の多い日本の空気と、日本人の皮膚の色とに、最もよく調和する洋服が流行するようになった。結構といえばこの方が結構であろう。
震災直後の秋は別であるが、今年も春から秋へかけて、浴衣《ゆかた》一枚の帽子無し、足袋《たび》なしの連中が下町の通りを毎晩一パイにゾロ付いた。彼等は他所《よそ》行き一張羅にばかり全力を注いでいるのだ。
も一つ例を挙げると、昨年の冬まで各種の雑貨店は安物全盛であったが、この頃では全然一変して高価な物をかなり多く並べる。五円級以上のワイシャツ、十円級以上の冬帽子は珍らしいものでなくなった。就中《なかんずく》プラチナの腕時計が如何に彼等腰弁の仲間に流行しているかは、一寸東京に行った人でもすぐに眼に付くところである。
彼等の中でも独身者は二百円以上取りながら……そうして相当の年輩となりながら、この身のまわり道楽に見込まれて、依然として洗濯を他人任せにしているのが珍らしくない。これには性の問題も影響している。自己紹介の必要の度合も昔よりも高まったというような理由もあろう。しかし、とにもかくにもこの道楽は忘れられないと見えて、月給の力を出来るだけこちらに注ごうと試みていることは事実である。
駱駝《らくだ》の胃、猿の頬
この中流階級の身のまわり道楽……一方から見れば渋い物流行は、呉服屋の宣伝でもなければ、その筋の奨励でもない。矢張り過般の大震災の影響と見るのが一番当っていると思う。
こんなところでウロ覚えの進化論なぞを持ち出すのは工合が悪いが、説明に便利だから一寸失敬さしてもらう。何かの本にこんな事があった。
「生きているものは一度でも或る変災に出会うと、二度とそんな眼に会いたくないという消極的な気もちと、これに抵抗してやろうという積極的な気持ちで、習慣や何かを一変させる事がある。これは一面から見ればたしかに進化に相違ないが、一方から見れば退化としか見られぬ事が多い」
この事実を最も著明に証拠立てたのが今度の地震であった。
今度の地震で、あらゆる家が焼けたり、たおれたりして、多勢の人が逃げ迷うのを見た東京人は、家とか財産とかいうものがまるで当てにならないものであると感じた。
さなきだに東京の人間は、江戸の昔から家に対する執着心が薄かった。
「一人もの店賃《たなちん》程は内に居ず」
「煤掃《すすは》きも面倒臭いと移転する」
で、家に対する執着が誠に少ないところへ、大地震と大火事で肝の潰れる程の教訓を受けたのだからたまらない。その後も引き続きグラグラと来るたんびに、何でも身に付く以外のものは無くなっても構わないようにという気持ちになって来た。
一方、震災後地方から押し上った連中も、早速この風《ふう》にカブレてしまった。コレという家財も無い身の軽い生活がこの道楽に陥り易い事は云う迄もない。況《いわ》んや「風采即信用」という風俗の格言が滔々として世を蔽いつつあるに於てをやである。
つまり、こうしておつとめ服の身のまわりにさえ金をかけておけば、借金取りでも滅多に寄り付けぬ。質に置くにも都合がいい。そうして素破《すわ》という場合にはいつ何時でも、手と身とツンツンで飛出しさえすればこっちのものになるというわけである。
支那人が股倉に金を貯め、駱駝が胃袋に水を溜め、猿が頬ペタに袋を下げ、牛が胃袋を四つ持っているところを、日本人だけに着物で気前を見せているのであろう。
進化か退化か知らないが、東京人がこうまで魘《おび》えてちぢこまっているかと思うと情なくもある。東京の新聞に大きな標題《みだし》を付けた地震の学説がこの頃まで出ているところを見ると、こんな知識階級のビクビク加減は地方人の想像以上であるらしい。
着物道楽……独身主義の延長……という、虚栄に囚われた女にでもありそうな傾向が男の中に流行している……女は無論の事……というこの二ツが東京にどれだけの独身生活者を殖やしているか、そうしてそれがどれ位まで東京の風俗を乱しているかは、話の筋をそれるから後まわしにする。
扨《さて》……こんな着物道楽の連中がいよいよ身のまわりを充実さして、新しい「アアラ吾が君」と同棲したとなると、今度は文化生活が理想となって来る。
つまり着物道楽は独身者《ひとりもの》の心理表現で、文化生活は夫婦者の理想の発表とでも定義しようか。
文化とは「ブル化」?
東京人の憧憬する文化生活を研究するには、先ず「文化」という言葉の定義からきめてかからねばならぬ。
文化という言葉はバラックと同様あんまり有触れ過ぎて、どんな事を意味するのか訳
前へ
次へ
全48ページ中39ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
夢野 久作 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング