窘《いじ》めて上げる事にして、ここでは先ず腰弁諸君の御噂から申上げる。
コザコザした物価調べなぞは抜きにして、東京の物価を福岡のソレと比較すると、牛肉が二倍、鶏が三倍、野菜や生魚が二倍半位にも当ろうか。十月から十一月頃、百円の月給では気の利いた下宿にも這入れぬ。
しかも学校を出てブッ付け百円取れるところは、東京中に無いと云った方が早道である。役所の帰りに荷車を引いて帰る男、制服のズボンで我慢をしている会社員、女持ち洋傘《こうもり》を翳《さ》して行く役人なぞいう式は、いくらでも見付かる。番傘とゴム靴に到っては数限りないと云ってよかろう。
こんな風をしてあるけるようになったのも偏《ひとえ》に震災の御蔭である。「地震鯰」もこういう風にばかりゆすぶっていれば、大蔵大臣にして差支えない。
も一つ序に地震の御蔭を云えば、前に云った日比谷や芝離宮(これは焼けてしまったが)、その他の避難民小舎にかがんでいる腰弁連で、百五十円取って、家族同伴で家賃を払うとすれば、どうしても十五円や二十円は取られる。無家賃でも、すこし油断をすれば生活費が一パイ一パイになる事|請合《うけあい》で、軽蔑されても罵られてもバラックに獅噛《しがみ》付いていたいという心理状態は、可愛相と云えば可愛相である。
茶色になった麦稈《ばっかん》帽子は以前にも増して殖えたように見えた。汗でリボンを真黒に染めた中折れも御同様に思える。それかあらぬか、さる富豪が二十何年同じ麦稈帽を冠ったというので、新聞に大々的に推賞されたのは、どれ位彼れ等の参考になった事であろう。
こうした事実の半面には、又彼等をギューギューいわせている或る種の圧迫がある。それは着物道楽と文化生活である。
この二ツは現在の東京の腰弁級の最高の理想と云って差支えない。この二ツの理想が彼等を刺戟している間に、彼等はいつまでもピーピー風車でいなければならぬのである。
ここで一寸《ちょっと》説明しておきたいのは、腰弁の上中下三階級である。
「腰弁」という名称の起りは、腰にブラブラしたアルミの弁当からであるが、それが今では月給取りの総称になってしまった。そうして本当の腰弁はその中の最下層に位する事になったので、それ以上のは有名無実の贋腰弁である。甚だしきに到っては奏任以上までが腰弁を僭称しているが、その実《じつ》弁当は洋食や丼にするという有様で、正に「腰弁精神」を穢《けが》すと云って差支えない。正真正銘の腰弁である記者はいつも衷心から憤慨しているものである。
閑話休題……ここでは月給取りの総称を便宜と習慣上腰弁と云っているが、今まで見渡して来た生活は、その腰弁中の腰弁の生活である。
彼等の収入は先ず百円内外で、ウッカリしなくとも、事実上労働者以下の生活と云った方が早い。
この頃の労働者の間違いない収入が、月に見積って最低百円とする。腰弁も同じく百円取るとしても、こっちは身なりが要るのと、教育があるために労働者程度の交際は出来ないので、その生活の程度はイヤでも労働者より落ちなければならぬ。
震災後、東京市中到る処に軒並べて(法螺《ほら》ではない)出来た安飲食店や弁当屋、カフェー等は彼等の唯一の慰安所でなければならぬが、そんな処でビールの満《まん》を引いたりしているのは大抵稼ぎ人風の男である。腰弁風のは居ても、独身者らしい若いので、隅ッ子に小さくなっているのが多い。
中流の着物道楽
中流以上の腰弁、ここでは主として男となると、こんな安飲食店や何かに来ない。下宿生活にしろ住宅生活(すくないようで案外多い)にしろ、東京市内ならばダリヤの一鉢、市外ならばコスモスの十四五本も植えた庭を睨めて納まっている。這入《はい》るにしても相当の体裁をしたカフェーや飲食店で、アイスクリームや曹達《ソーダ》水位は平気で嘗《な》めたり吸ったりしている。
この連中の最近の道楽が、前に云った着物道楽と文化生活である。強いて階級を付くれば、着物道楽が二百円級、文化生活が三百円級の理想と云えようか。
「東京の中流階級の男の風采がジミになった。その基調色は茶や黒又は鼠色で、昔のような派手なスタイルは下火になった」と或る新聞に出た。これは万人がそう認めているところである。「日本の中央都市にこんな堅実な風俗が流行するのは慶賀すべき現象である」とさえ云っている。
果してそんな結構な流行かどうかは別として、そのジミになった彼等の服装をよく気をつけて見ると、決してジミでないことがわかる。
如何にも色だけは渋い目立たぬ柄を選んであるが、その生地を見ると、田舎者の肝を潰すようなのが珍らしくない。こんな高価な服を着る人が、何でムザムザ電車に乗るのだろうと思うのさえある。つまり、皆がいい服を着るようになったために、自然と柄が高等になったの
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