に是非一度乗らねばと思いつつ、ついに光栄に浴し得なかったから詳しい事は知らぬが、見かけばかりでなく内容までキタナイのは事実である。ガタ馬車を自動車にしたようなもので、運転手に帽子を持たない奴などが居るところは、市営とも思えぬ位である。その代り賃金はずっと安くて、速力は私営のとあまり変らない。車台の数も多く、盛にブーブーやっている。人も相当に乗っている。客種はズッと落ちる。
 あんまりこれでは不体裁な上に収支相償わぬからと、市で廃止しかけたら、運転手連がストライキ……ではない、その反対の運動をやってとうとう喰い止めた。
 そこで市でも考えて、今度は新しいハイカラなのを作るというので、その見本を市会議員が下検分したのが十月の上旬であったと記憶する。
 以上述べた私立乗合いと円太郎自動車は、東京市内の主として下町の目抜の通りにそれぞれ停留場を作って活動しているのであるが、東京市内はこんな自動車が引っ切りなしに飛び違う上に、無数の貸物自動車や公私用のサイドカー、オートバイ、自転車と往来を八重七合に流れているので、ちょっと往来を横切るにも、耳に飛び付くようなベルや警笛の音を喰らわせられる。
 云う迄もなく震災後には特別に繁華になったので、雨天の時なぞ、こんな自動車が警察|除《よ》け(これは自動車のタイヤの横に警察の命令で取り付けたハネ押えの異名で、何の役にも立たぬが多いから、運転手仲間でこう名付けている)をふりまわしながら、電車と一所《いっしょ》に泥煙を揚げて群衆に突貫して行く光景は、壮観? というも愚かである。
 こんな風だから、辻々に立っている交通巡査や電車の旗振りでも、生やさしい事ではつとまらない。見る間に電車や自動車が畳み重なって、盛にベルや笛を鳴らして催促をする有り様は、見たばかりでも神経衰弱の種である。
 ちょっと余談であるが、この交通巡査の身ぶりを見ていると、なかなか面白いものである。電車の旗振りの方は旗でさしまねくのだから、あまり眼には立たぬが、交通巡査は大抵白い手袋をはめて、手ぶらで交通を支配するのだから、その身体《からだ》付きや手よう[#「よう」に傍点]、眼よう[#「よう」に傍点]に自然と個性があらわれていて、小学生なぞが遠くから真似しているのをよく見受ける。
「ホラ、お出《いで》お出だ。今度はフラフラダンス。失敬失敬。体操だ体操だ。オイチニオイチニ。又かわるよ。赤旗になったから……」
 なぞとやっている。驚いたのは、女学生がこんな事によく気をつけている事で、山の手線電車の待ち合いで大勢寄って、真似し合って笑っているのを見た。
「須田町のはこうよ……駿河台下のはこうよ……」
 といった風で、名前ばかりでも十二三聴いた。その中で記者のノートに残っているのは、
 まねき猫、お湯|埋《うず》め、蠅追い、スウェーデン式、鰌《どじょう》すくい、灰掻き、壁塗り
 なぞ……女学生と小学生と名前のつけ方が違っているところが面白い。
 こんな風に電車の中ばかりでなく、普通の往来まで緊張して来たことは非常なもので、殊にその音響と来たらちょっと形容が出来ない。東京の悪道路の事は前に書いたが、それだけに自動車や電車のわるくなり方も甚だしいと見えて、さなきだに八釜《やかま》しい往来が一層烈しくドヨメイて、肩を並べながら話しも出来ない有り様である。
 その中を只専心一途に自分の方向を守って、眼を光らし、耳を澄まして行かねばならぬのが東京人の運命である。そのためにその神経は益《ますます》冴え、その気持ちには余裕が無くなって疲れ易く、興奮し易く、泣き易く、怒り易くなる運命に陥ることは云う迄もない。
 以上述べたところで、東京の新しい町と交通機関が与える感じは、あらかた説明し得た事と信ずる。
 こうしたバラックの安ッポイ強烈な神経にあおられ、交通機関の物凄い雑踏に押しもまれた東京人の神経が、如何にデリケートなセンチメンタルさにまで高潮されているかは、想像に難くないであろう。
 警察で自由恋愛論をやる女学生……今の夫を嫌って前の夫の名を呼びながら往来を走る女……それを間男と間違えて追っかける男……世を厭《いと》うて穴の中に住む男……母親にたった一度叱られただけで自殺した女生徒……五円の金を返せないので自殺した妻……逃げた犬を探して公園のベンチに寝る男……なぞいう、狂人に近いあわれな人間の事がこの頃の新聞に多く見受けるようになったのは、そうした東京人の心理状態を強く裏書しているのではあるまいか。
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▲備考[#「備考」に傍点] この傾向は紐育《ニューヨーク》のような大都会になると一層烈しいので、同市の自殺原因の統計の中には、朝牛乳瓶が割れたためとか、ヘアピンをなくしたためとか、又は学校に遅刻したためとかいうような物
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