微細な粉雪が霜のように凍て付いて、銀色の塑像のような、非人間的な感じを現わしていたが、その左手の二本しかない指で、鞄の口をシッカリと抓《つま》んで胸の上に抱いていた。その鞄の口を開けてみると中には東京の新聞が二つと二百円入りの価格表記の袋が、チットも濡れずに這入っていた。その死顔には何等の苦悶のあとも無く、あの人相の悪い、頑固一徹な感じは、真白い雪の中に吸い取られてしまったのであろう。あとかたもなく消え失せて、代りにあの国宝の仏像の唇に見るような、この世ならぬ微笑が、なごやかに浮かみ漂うているのであった。
 奇蹟を見た人間でも、これ程に驚き恐れはしなかったであろう。
 それは零下何度の寒さのせいではなかった。私は全身の関節が、ガタガタと震え戦《おのの》くのを感じながら、眼をマン丸く見開いて、その神々しい死顔を凝視した。そうして今朝、忠平の失踪を聞いて、その横死を確信した一刹那から、こうして雪の中を夢中になって歩いて来て、忠平の死顔を発見するに到るまでの私の気持を繰返し繰返し考え直してみた。

 それは私が今日まで一度も経験したことのない、私の心理上に起った一つの大きな奇蹟であった。生命の本質を物質の化学作用に過ぎないものと信じ、露西亜《ロシア》流の唯物弁証法にカブレて人間の誠意とか、忠孝の観念とか、崇拝心とかいうものを極度に冷眼視し、軽蔑した私が、どうして忠平の義務心を確信し、こうした横死を憂慮して無我夢中になり、生命《いのち》がけでここまで辿って来たか。それは忠平の死と共に、私の生涯にとって又とない大きな大きな奇蹟以外の何ものでもなかった。
 すべては唯物哲学を以て弁証することが出来る。しかし生命、もしくは生命の波動である精神ばかりは人間の発明した科学では説明出来ない。私は今まで人間の精神は、物質によってのみ支配されるものと信じて来た。ところが、私は今朝から、精神そのものに支配されている精神そのものの偉大崇高さばかりを、眼の前に凝視しつづけて来ていたのだ。
 そう気が附くと同時に、私は立っていることが出来なくなった。全身をワナワナガタガタと戦かし、歯の根をカチカチと鳴らしながら、ぐたぐたと雪の中に両膝を突いて坐り込んだ。しっかりと合掌しながら、改めて忠平の死体を見直した。
 猟師の吉兵衛老人を初め三人の男も、手に手に被《かぶ》り物を取除けて、頭を垂れて合掌した。

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