妖怪に出遭ったような感じに囚われたので、そのままなおもジリジリと後じさりをして行った。すると又、右手に在る八尺位の海藻の中から、濁った、けだるそうな声が聞えて来た。
「……貴方《あなた》は……金貨を探しに来られたのでしょう」
私の胸の動悸が又、突然に高まった。そうして又、急に静かに、ピッタリと動かなくなった。……妖怪以上の何とも知れない恐ろしいものに睨《にら》まれていることを自覚して……。
すると又、一番向うの背の低い、すこし離れている一本の中から、悲しい、優しい女の声がユックリと聞えて来た。
「私たちは妖怪じゃないのですよ。貴方がお探しになっているオーラス丸の船長夫婦と……一人の女の児《こ》と……一人の運転手と……三人の水夫の死骸なのです。……今、貴方とお話したのは船長で、妾《わたし》はその妻なのです。おわかりになりまして……。それから一番最初に貴方をお呼び止めしたのは一等運転手なのです」
「……聞いてくんねえ。いいかい……おいらは三人ともオーラス丸の船長の味方だったのだ」
と別の錆び沈んだ声が云った。
「……だから人非人ばかりのオーラス丸の乗組員の奴等に打ち殺されて、ズックの袋を引っかぶせられて、チャンやタールで塗り固められて、足に錘《おもり》を結《ゆ》わえ付けられて、水雑炊《みずぞうすい》にされちまったんだ」
「……………」
「……それからなあ……ほかの奴らあ、船の破片を波の上にブチ撒《ま》いて、沈没したように見せかけながら、行衛《ゆくえ》を晦《くら》ましちまやがったんだ」
「……………」
「……その中でも発頭人《ほっとうにん》になっていた野郎がワザと故郷の警察に嘘を吐《つ》きに帰りやがったんだ。タッタ一人助かったような面《つら》をしやがって……ここで船が沈んだなんて云いふらしやがったんだ……」
「ホントウよ。オジサン……その人がお父さんとお母さんの前で、妾を絞め殺したのよ。オジサンはチャント知っていらっしゃるでしょ」
という可愛らしい、悲しい女の児の声が一番最後にきこえて来た。七本のまん中にある一番|丈《たけ》の低い袋の中から洩れ出したのであろう……。あとはピッタリと静かになって、スッスッという啜《すす》り泣きの声ばかりが、海の水に沁み渡って来た。
私は棒立ちになったまま動けなくなった。だんだんと気が遠くなって来た。信号綱を引く力もなくなったまま……。
私が、その張本人の水夫長だったのだ……。
……どこかで、お寺の鐘が鳴るような……。
硝子世界
世界の涯《はて》の涯まで硝子《ガラス》で出来ている。
河や海はむろんの事、町も、家も、橋も、街路樹も、森も、山も水晶のように透きとおっている。
スケート靴を穿《は》いた私は、そうした風景の中心を一直線に、水平線まで貫いている硝子の舗道をやはり一直線に辷《すべ》って行く……どこまでも……どこまでも……。
私の背後のはるか彼方《かなた》に聳《そび》ゆるビルデングの一室が、真赤な血の色に染まっているのが、外からハッキリと透かして見える。何度振り返って見ても依然としてアリアリと見えている。家越し、橋越し、並木ごしに……すべてが硝子で出来ているのだから……。
私はその一室でタッタ今、一人の女を殺したのだ。ところが、そうした私の行動を、はるか向うの警察の塔上から透視していた一人の名探偵が、その室が私の兇行で真赤になったと見るや否や、すぐに私とおんなじスケート靴を穿いて、警察の玄関から私の方向に向って辷り出して来た。スケートの秘術をつくして……弦《つる》を離れた矢のように一直線に……。
それと見るや否や私も一生懸命に逃げ出した。おんなじようにスケートの秘術をつくして……一直線に……矢のように……。
青い青い空の下……ピカピカ光る無限の硝子の道を、追う探偵も、逃げる私もどちらもお互同志に透かし合いつつ……ミジンも姿を隠すことの出来ない、息苦しい気持のままに……。
探偵はだんだんスピードを増して来た。だから私も死物狂いに爪先を蹴立てた。……一歩を先んじて辷り出した私の加速度が、グングンと二人の間の距離を引離して行くのを感じながら……。
私は、うしろ向きになって辷りつつ右手を拡げた。拇指《ぼし》を鼻の頭に当てがって、はるかに追いかけて来る探偵を指の先で嘲弄《ちょうろう》し、侮辱してやった。
探偵の顔色が見る見る真赤になったのが、遠くからハッキリとわかった。多分|歯噛《はが》みをして口惜《くや》しがっているのであろう。溺れかけた人間のように両手を振りまわして、死物狂いに硝子の舗道を蹴立てて来る身振りがトテモ可笑《おか》しい……ザマを見やがれ……と思いながらも、ウッカリすると追い付かれるぞと思って、いい加減な処でクルリと方向を転換したが……私はハッとした。いつの間にか地平線の端まで来てしまった。……足の下は無限の空虚である。
私は慌てた。一生懸命で踏み止《とど》まろうとした。その拍子に足を踏み辷らして硝子の舗道の上に身体《からだ》をタタキ付けたので、そのまま血だらけの両手を突張って、自分の身体を支え止めようとしたが、しかし今まで辷って来た惰力が承知しなかった。私の身体はそのまま一直線に地平線の端から、辷り出して無限の空間に真逆様《まっさかさま》に落込んだ。
私は歯噛みをした。虚空を掴んだ。手足を縦横ムジンに振りまわした。しかし私は何物も掴むことが出来なかった。
その時に一直線に切れた地平線の端から、探偵の顔がニュッと覗いた。落ちて行く私の顔を見下しながら、白い歯を一パイに剥き出した。
「わかったか……貴様を硝子の世界から逐《お》い出すのが、俺の目的だったのだぞ」
「……………」
初めて計られた事を知った私は、無念さの余り両手を顔に当てた。大きな声でオイオイ泣き出しながら無限の空間を、どこまでもどこまでも落ちて行った……。
底本:「夢野久作全集3」ちくま文庫、筑摩書房
1992(平成4)年8月24日 第1刷発行
底本の親本:「瓶詰地獄」日本小説文庫、春陽堂
1933(昭和8)年5月15日発行
入力:柴田卓治
校正:しず
2000年6月9日公開
2006年3月7日修正
青空文庫作成ファイル:
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