した。
……パラシュートを開かないまま百|米突《メートル》ほど落ちて行った。
私と同じ姿勢で、パラシュートを開かないまま、弾丸のように落下して行く私そっくりの相手の姿……私そっくりの顔を凝視しながら……。
……はてしもない青空……。
……眩しい太陽……。
……黄色く光る層雲の海……。
街路
大東京の深夜……。
クラブで遊び疲れたあげく、タッタ一人で首垂《うなだ》れて、トボトボと歩きながら自宅の方へ帰りかけた私はフト顔を上げた。そこいら中がパアット明るくなったので……。
……そのトタン……飛び上るようなサイレンの音に、ハッと驚いて飛び退く間もなく、一台の自動車が疾風《はやて》のように私を追い抜いた。……続いて起る砂ほこり……ガソリンの臭い……4444の番号と、赤いランプが見る見るうちに小さく小さく……。
……ハテナ……あの自動車の主《ぬし》は人形じゃなかったかしら……あんまり綺麗過ぎる横顔であった。着物はよくわからなかったが、水の滴るような束髪《そくはつ》に結《ゆ》って、真白に白粉《おしろい》をつけて、緑色の光りの下にチンと澄まして……黒水晶のような眼をパッチリと開いて、こころ持ち微笑《ほほえ》みを含みながら、運転手と一緒に、一直線の真正面を見詰めて行った。あの反《そ》り身《み》になった澄まし加減がイカニモ人形らしかった……と思う中《うち》に又一台あとから自動車が来た。
私はすぐに振り返ってみた。
その自動車の主はパナマ帽を冠《かぶ》った紳士であった。赭《あか》ら顔の堂々と肥った、富豪の典型のような……それが両手をチャンと膝《ひざ》に置いて、心持ち反り身になったまま、運転手と一緒に、一直線の真正面をニコニコと凝視しながら、私の前をスーッと通り過ぎた。自動車の番号は11111……。
……人形だ人形だ。今の紳士はたしかに人形だった……ハテナ……オカシイゾ……。
……と考えているうちに私は又、石のように固くなったまま向うから来かかった自動車の内部を凝視した。
……今度は金襴《きんらん》の法衣を着た坊さんであった。若い、品のいい宮様のように鼻筋のとおった人形……それが心持ち眼を伏せて、両手を拝み合わせたままスーッと辷って行った。
私はブルブルと身震いをした。あたりは森閑《しんかん》とした街路……大空は星で一パイ……。
……深夜の東京の怪……私がタッタ一人で見た……。
私は、私の周囲に迫りつつある、何とも知れない、気味のわるい、巨大《おおき》な、恐ろしいものを感じた。一刻も早く家《うち》に帰るべくスタスタと歩き出した。
その時に私の前と背後《うしろ》から、二台の自動車が音もなく近付いて来た。
……私と……。
……私の夢の……。
……結婚式当日の姿……。
私は逃げ出した。クラブの玄関へ駈け込んで、マットの上にぶッ倒れた。
「助けてくれ」
病院
私はいつの間にか頑丈《がんじょう》な鉄の檻《おり》の中に入れられている。白い金巾《かなきん》の患者服を着せられて、ガーゼの帯を捲き付けられて、コンクリートの床のまん中に大の字|型《なり》に投げ出されている。
……精神病院らしい。
しかし私は驚かなかった。そのまま声も立てずにジット考えた。ここが精神病院だとわかれば、騒いでも無駄だからである。騒げば騒ぐほど非道《ひど》い目に合う事がわかり切っているからである。おまけに今は深夜である。かなり大きい病院らしいのにコットリとも物音がしない。……騒いではいけない、憤《おこ》ってはいけない。否《いな》々。泣いても笑ってもいけないのだ。いよいよキチガイと思われるばかりだから……。
私はそろそろとコンクリートの床のまん中に坐り直した。両手を膝の上に並べて静坐をして、眼を半眼に開いて、檻の鉄棒の並んだ根元を凝視した。神経を鎮《しず》めるつもりで……。
果して私の神経はズンズンと鎮静して行った。かなり広い病院の隅から隅までシンカンとなって……。
その時であった。私が正面している鉄の檻の向うから誰か一人ポツポツと歩いて来た。それは白い診察着を着た若い男らしく、私が坐っているコンクリートの床よりも一尺ばかり高くなっている板張りの廊下を、何か考えているらしい緩やかな歩度《ほど》でコトリコトリと近付いて来るのであったが、やがて私の檻の前まで来るとピッタリと立ち止まった。そうして両手をポケットに突込んだまま、ジット私を見下しているらしく、爪先を揃えたスリッパ兼用の靴が、私の上瞼《うわまぶた》の下に並んだまま動かなくなった。
私はソロソロと顔を上げた。
その私の視界の中には、まず膝の突んがった縞《しま》のズボンと、インキの汚染《しみ》のついた診察着が這入《はい》って来た……が……それはどこかで見た事のある縞ズボンと診察着であった……と思ってチョット眼を閉じて考えたが……間もなく私はハッと気付いた。眼をまん丸く剥《む》き出して、その顔を見上げた。
それは私が予想した通りの顔であった。……青白く痩せこけて……髪毛《かみのけ》をクシャクシャに掻き乱して……無精髪《ぶしょうがみ》を蓬々《ぼうぼう》と生《は》やして……憂鬱な黒い瞳《め》を伏せた……受難のキリストじみた……。
それは私であった……嘗《かつ》てこの病院の医務局で勉強していた私に相違なかった。
私の胸が一しきりドキドキドキドキと躍り出した。そうして又ドクドクドク……コツコツコツコツと静まって行った。
診察着の背後《うしろ》の巨大な建物の上を流れ漂う銀河が、思い出したようにギラギラと輝いた。
……と……同時に私は、一切の疑問が解決したように思った。私を精神病患者にして、この檻に入れたのは、たしかにこの鉄格子の外に立っている診察着の私であった。この診察着の私は、あまりに自分の脳髄を研究し過ぎた結果、精神に異状を呈して、自分と間違えてこの私を、ここにブチ込んだものに相違なかった。この「診察着の私」さえ居なければ私は、こんなにキチガイ扱いされずとも済む私であったのだ。
そう気が付くと同時に私は思わずカッとなった。吾を忘れて、鉄檻の外の私の顔を睨み付けながら怒鳴った。
「……何しに来たんだ……貴様は……」
その声は病院中に大きな反響を作ってグルグルまわりながら消え失せて行った。しかし外の私は少しも表情を動かさなかった。診察着のポケットに両手を突込んだまま、依然として基督《キリスト》じみた憂鬱な眼付で見下しつつ、静かな、澄明《ちょうめい》な声で答えた。
「お前を見舞いに来たんだ」
私はイヨイヨカッとなった。
「……見舞いに来る必要はない。コノ馬鹿野郎……早く帰れ。そうして自分の仕事を勉強しろ……」
そういう私の荒っぽい声の反響を聞いているうちに私は、自分の眼がしらがズウーと熱くなって来るように思った……何故《なぜ》だかわからないまま……しかし外の私はイヨイヨ冷静になったらしく、その薄い唇の隅に微《かすか》な冷笑を浮かべたのであった。
「お前をこうやって監視するのが、俺の勉強なのだ。お前が完全に発狂すると同時に俺の研究も完成するのだ。……もうジキだと思うんだけれど……」
「おのれ……コノ人非人《にんぴにん》。キ……貴様はコノ俺を……オ……オモチャにして殺すのか……コ、コ、コノ冷血漢……」
「科学はいつも冷血だ……ハハ……」
相手は白い歯を出して笑った。突然に空を仰いで……嘯《うそぶ》くように……。
私は夢中になった。イキナリ立ち上って檻《おり》の中から両手を突き出した。相手の白い診察着の襟《えり》を掴んでコヅキ廻した。
「……サ……ここから出せ……出してくれ……この檻の中から……そうして一緒に研究を完成しようじゃないか……ね……ね……後生《ごしょう》だから……」
私は思わず熱い涙に咽《む》せんだ。その塩辛い幾流れかを咽喉《のど》の奥へ流し込んだ。
けれども診察着の私は抵抗もしなければ、逃げもしなかった。そうして患者服の私に小突かれながら苦しそうに云った。
「……ダ……メ……ダ……お前は俺の……大切な研究材料だ……ここを出す事は出来ない」
「ナ……ナ……何だと……」
「お前を……ここから出しちゃ……実験にならない……」
私は思わず手をゆるめた。その代りに相手の顔を、自分の鼻の先に引き付けて、穴の明く程覗き込んだ。
「……何だと! モウ一ペン云って見ろ」
「何遍云ったっておんなじ事だよ。俺はお前をこの檻の中に封じ籠《こ》めて、完全に発狂させなければならないのだ。その経過報告が俺の学位論文になるんだ。国家社会のために有益な……」
「……エエッ……勝手に……しやがれ……」
と云いも終らぬうちに私は、相手のモシャモシャした頭の毛を引っ掴んだ。その眼と鼻の間へ、一撃を食らわした。そうして鼻血をポタポタと滴らしながらグッタリとなった身体《からだ》を、力一パイ向うの方へ突き飛ばすと、深夜の廊下に夥《おびただ》しい音を立てて……ドターン……と長くなった。そのまま、死んだように動かなくなった。
「……ハッハッハッ……ザマを見ろ……アハアハアハアハ」
七本の海藻
曇り空の下に横たわる陰鬱な、鉛色の海の底へ、静かに静かに私は沈んで行く。金貨を積んで沈んだオーラス丸の所在をたしかめよ……という官憲の命令を受けて……。
潜水着の中の気圧が次第次第に高まって、耳の底がイイイ――ンンと鳴り出した。続いて心臓の動悸がゴトンゴトン、ボコンボコンという雑音を含みながら頭蓋骨の内側へ響きはじめる。それにつれて、あたりの静けさが、いよいよ深まって行くような……。
……どこか遠くで、お寺の鐘が鳴るような……。
灰色の海藻の破片がスルスルと上の方へ昇って行く。つづいて、やはり灰色の小さい魚の群が、整然と行列を立てたまま上の方へ消え失せて行く。
眼の前がだんだん暗くなり初める。
……とうとう鼻を抓《つま》まれても解らない真の闇になると、そのうちに重たい靴底がフンワリと、海底の泥の上に落付いたようである。
私は信号綱を引いて海面の仲間に知らせた。
私は潜水|兜《かぶと》に取付けた電燈の光りをたよりに、ゆっくりゆっくりと歩き出した。まん丸い、ゆるやかな斜面を持った灰色の砂丘を、いくつもいくつも越えて行った。
しかし行けども行けども同じような低い、丸い砂の丘ばかりで、見渡しても見渡しても船の影はおろか、貝殻一つ見当らなかった。……のみならず私は暫く歩いて行くうちに、そこいら中がいつともなく薄明るくなって、青白い、燐《りん》のような光りに満ち満ちて来たことに気が付いた。……沙漠の夕暮のような……冥府《あのよ》へ行く途中のような……たよりない……気味のわるい……。
私は静かに方向を転換しかけた。何となく不吉な出来事が、私の行く手に待っているような予感がしたので……。けれども、まだ半廻転もしないうちに、私はハッと全身を強直さした。
ツイ私の背後の鼻の先に、いつの間に立ち現われたものか、何ともいえない奇妙な恰好《かっこう》をした海藻の森が、涯《は》てしもない砂丘の起伏を背景にして迫り近付いている。
……海藻の森……その一本一本は、それぞれ五六尺から一|丈《じょう》ぐらいある。頭のまん丸いホンダワラのような楕円形をした……その根元の縊《くく》れたところから細い紐《ひも》で海底に繋がっている。並んだり重なり合ったりしながら、お墓のように垂直に突立っている。蒼白《あおじろ》い、燐光《りんこう》の中に、真黒く、ハッキリと……数えてみると合計七本あった。
私は唖然《あぜん》となった。取りあえずドキンドキンと心臓の鼓動を高めながら、二三歩ゆるゆると後《あと》じさりをした。
するとその巨大な海藻の一群《ひとむれ》の中でも、私に一番近い一本の中から人間の声が洩れ聞えて来た。
低い、カスレた声であった。
「モシモシ……」
私は全身の骨が一つ一つ氷のように冷え固まるのを感じた。同時に、その声の正体はわからないまま、この上もなく恐ろしい
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