もしそのような場合になりましたら、私はどう致しましょう。この背中から胸へ抜けとおっております恐ろしい疵痕を、私はどうしてお兄様にお眼にかけることが出来ましょう。そうして、それをしも御承知の上で、お構いにならぬとしましても、私はもうその頃から、一生涯治る見込みも御座いませぬ難病に取りつかれている事を、よく存じておりましたのをどう致しましょう。
私はこの病気を隠しとう御座いましたばっかりに、何もかも忘れて、一心に勉強をつづけておりましたのです。ただ気もちばかりで生きておりましたのです。そうしてそんなような気もちを持ちつづけて行きますうちに、いつからともなく、亡くなられました私のお母様が今わの際《きわ》にお残しになったあの謎のお言葉の、あとの半分の意味をウッカリ悟ってしまっていたので御座います。
「私は不義を致しましたおぼえは毛頭御座いません。けれども……この上のお宮仕えは致しかねます」
とキッパリお父様に仰有った、そのお母様のお言葉の中には、その時のお母様が、やはり私と同じような病気にかかって私と同じような気もちでお仕事に熱中しておいでになった、絶望的なお心持ちが堪えられぬ程痛々しく一パイに籠《こも》っていたに違いありませぬ事を、身にしみじみ悟っていたので御座います。
何をお隠し致しましょう。私の家は代々こうした病気に呪われておりましたために縁組みをするものがないと云ってもよかったので御座います。ですからお母様は、ただ私一人が幸福になりますように……そうして私一人の幸福をお守りになりたいために、あのようなお言葉を残されて、世をお早めになったものとしか考えられないので御座います。
そのお母様と同じ病毒で一パイになっておりますこの身体《からだ》を、どうしてお若い御病身のお兄様に捧げることが出来ましょう。そのためにお兄様の御名誉と芸術とを捨てていただく事が、どうして出来ましょう。
そう思います度に私の胸は、いつも張り裂けるようになりました。拭いても拭いても落ちる涙をピアノのキーの上から払い除《の》けながら、ソッと蓋を卸《おろ》しまして、その冷たい板の上に、熱のある頬をシミジミと押しつけました事が幾度《いくたび》で御座いましたろう。
けれどもお兄様。私はもう只今となりましては何もかもわからなくなってしまいました。
ただ……お兄様がこの手紙を御覧になりましたならば、すべてがスッカリおわかりになりますことと……そればかりを心頼みに致しまして、ようようにここまで認《したた》めて来たので御座います。
それは何故かと申しますと、お兄様はもしや、お兄様の本当のお母様を御存じなのではないかと思われますからで御座います。そうして、それと一緒に、お父様の御病気のホントの原因も御存じになっていることと思われますからで御座います。
そうして又、もしも、そんな事が御座いませんで、お兄様はそのような事についてホントウに何一つ御存じないものとしますれば、あなたのお父様は、やはり私のお母様とおんなじように、唯一つの恋をお胸に秘められたまま……お兄様にもお明かしにならないまま……この上もなく気高《けだか》い一生をお送りになったお方に違い御座いませぬことが、たやすくお察し出来るからで御座います。
どうぞおゆるし下さいませ。
御病気の折柄をも構いませず、女心のせつなさに、こんなに長々とした事を御眼にかけまして嘸《さぞ》かしお読みづらくてお疲れの事と存じます。
けれどもこの事をお打ち明けして、ホントの事を判断して頂くお方はこの世にお兄様お一人しか、おいでにならないので御座います。私はもう、このような秘密を胸に秘めております力がなくなりましたので御座います。唯一人、お兄様のお心にお縋《すが》りするよりほかに致し方がなくなったので御座います。
お兄様、もしお兄様が、ホントウに私のお兄様でおいでになりますならば私はお兄様のただ一人の妹として、生命《いのち》にかえてもお願い致します。
看護婦さんたちの、それとないお話しを聞きますと、お兄様は、その後大変にお工合がよろしいとの事で、それだけ承わりましただけでも自分の病気が薄らいで行くように心強う御座います。どうぞどうぞこの上にもよくおなり遊ばして、スッカリもとのようにおなり遊ばすまでは、私の事を出来るだけお忘れ下さいまして、お心静かに御養生なすって下さいませ。私はそればかりを心頼みに致しましてこの病院でお手当てを受けております。そうして生きておりますうちに、ただ一眼でも、お兄様のお丈夫なお姿を拝見したいとそればかりを神様にお祈り致しております。
私はもうこの世の中で、お兄様の事を考えるよりほかには何の楽しみもなくなっているので御座いますから……。
けれどももしかして、まだお兄様が御丈夫な御自由なお身体《からだ》におなりになりませぬうちに、私が亡くなりますようなことが御座いましたならば、済みませぬが唯一度でよろしう御座いますから私のお墓にお参り下さいまして、お出来になりますことなら多くの花よりも、あの花菖蒲をお手向《たむ》けになって下さいませ。お母様がお斬られになった時に、お座敷の前に咲いておりました思い出の花で御座いますから……。
どうぞどうぞお願い致します。決して御無理をなさいませぬように……そんな事を遊ばしたことがわかりましたならば、私は、その上の御無理をおさせ申しませんように覚悟致しているので御座いますから……。
せめて、お兄様だけでも、御無事にこの世に生き残って頂きまして、お母様の芸術をこの世にあらわして下さいますようにと、そればかりをお祈りしているので御座いますから……。
けれどももしそうで御座いませんでしたならば、お兄様と私とが、血を分けた兄妹《きょうだい》で御座いませんでしたならば……ホントウにあなたのお父様と、私のお母様の、せつないお心の形見で御座いましたならば……。
ああ……私はどう致しましょう……。
あなたのお父様と、私のお母様の恋は、世にも上なく清浄なもので御座いました。
そうして永久に気高いもので御座いました。
どうぞどうぞお兄さまと私の恋も、そのようにいつまでも気高く、清浄に、悲しくておわりますように……。
今一度お眼にかかりたい……と思いますと、私は又しても狂おしい心地にせめられます。けれども、このような思いすらも、お二方《ふたかた》の恋の気高さに比べますと、お恥かしい、汚らわしいもののように思われまして……。
思いが乱れまして、もう筆が進みませぬ。お名残《なご》り惜しう存じます。
[#地から3字上げ]あらあらかしこ
明治三十五年三月二十九日
[#地から2字上げ]井の口トシ子より
菱田新太郎様
みもとに
底本:「夢野久作全集3」ちくま文庫、筑摩書房
1992(平成4)年8月24日第1刷発行
底本の親本:「日本探偵小説全集 第十一篇 夢野久作集」改造社
1929(昭和4)年12月3日発行
※底本にある表記の不統一(「柴忠」と「芝忠」、「鷹が宿」と「鷹の宿」、「井ノ口」と「井の口」)には、手を加えなかった。
入力:柴田卓治
校正:おのしげひこ
2000年5月22日公開
2006年3月7日修正
青空文庫作成ファイル:
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