様が不意に立て膝をなすって、ヒンガラ眼をしてお母様をお白眼《にら》みになりましたが、そのお顔の怖ろしかった事……私もお母様もハッとして飛びのいたほどで御座いました。そうして、そのあとで三人が笑いこけました時の可笑《おか》しかったこと、私は死ぬかと思いました。
「まあまあ御覧なさい。筆が火鉢に落ちました」
 と云いながら、お母様が灰だらけの毛書《けが》き筆を火箸《ひばし》でお拾いになりましたので、三人は又涙の出る程笑いこけましたが、お母様がこんなに心からお笑いになるのを見ましたのは、後にも先にもこの時だけであったように思います。
 こうして顔が出来上りますと、それに鬚《ひげ》や髪の毛を植えて、関羽と張飛は眉まで植えまして、お母様のお得意の浮き出し人形が出来上りますとその厳《いか》めしさと立派さは眼もさめるようで、ことにその中でも張飛の眼は、お父様に生き写しのように思われました。それを聞き伝え云い伝えして見に来る人が又沢山にありましたが、その中にはあのお金持ちの柴忠さんも見えまして一生懸命に力んで感心をしながら、こんな事を云われました。
「どうも奥さんのお手並には今更ながら感心しました。失礼ですがこの前の阿古屋の琴責めの時よりもズンと名人におなりになったようです。つきましては、お忙がしうも御座いましょうが今一つこの通りのを作って頂いて博多ッ子の氏神の櫛田神社にあの阿古屋の琴責めと並べて奉納致したいと思いますが如何でしょうか。実を申しますとこの前の阿古屋のお人形を家《うち》に置いておきますと、そのためのお客がうるさくてたまりませんので、娘の名前で櫛田神社に奉納したのですが、その当時はあれを見に来る人のために、お宮の賽銭《さいせん》が違ったと申す位で……イヤイヤ決してお世辞を云うのでは御座いませぬ。流石《さすが》に博多は諸芸の都だけあると皆《みんな》、感心をしておりましたので……そこへちょうど私が櫛田様へ御願《おがん》を立てて運動に取りかかりました株式の取引所が、このごろ鰯町《いわしまち》の私の地所に来る事になりましたので、その御願ほどきのために奥様の押絵を上げましたならば神様もきっとお喜びになる事と思って伺いました次第です。よい錦絵が御入用なら何程でも取り寄せて差上げます。この頃は汽車というものがありますから、東京へ電報を打てば十日足らずで着きますから」
 というようなお話でした。
 その時のお母様のお喜びになった御様子は今でも眼に残っております。手を揉《も》み合せて顔を真赤にして、さも心配に眼を潤ませて、お父様の御返事を待っておいでになる物ごしが、まるで赤ん坊のようにイジラシク見えました。
 お父様は直ぐにお許しになりました。しかも大乗気の御様子で、
「奥(お母様のこと)はわしの顔を手本にしてこの三国志の人形を作ったのでナ」
 とその時の模様を大自慢でお話しになりましたので、お母様は恥かしがって真赤になったままお台所の方へ逃げておいでになりました。私もすぐにあとから追っかけて参いりましたが不思議なことにお母様は、いつの間にか青い顔におなりになって、台所の上り口に腰をかけてシクシク泣いておいでになりましたので私もビックリしました。そうしてどうなすったのかと思ってお傍へ行ってお顔を覗《のぞ》き込みますと、お母様はもう大きくなっている私の身体《からだ》を赤ん坊のように抱き寄せて、私の鼻のお化粧を鼻紙でお直しになりながら、
「私は錦絵さえいただけばお金なんか要《い》らんのに、お父様はいつまでも慾の深いことばかり仰有って………」
 と、さも口惜しそうに唇を噛んでホロホロと涙をお流しになりました。その時にお座敷の方から、お父様と柴忠さんの大きな笑い声が聞こえて来ましたので、私も急に悲しくなりましてお母様と抱き合って泣いたことを記憶《おぼ》えております。
 それから何日か経ちますと東京から大きなお菓子の箱みたようなものが、お母様のお名前で送って来ましたから、お父様が釘抜きと金槌で開いて御覧になるとどうでしょう。その中には錦絵が一パイに詰まっているのでは御座いませんか。
「まあ……これ……みんな絵ばかり……」
 と仰有って真青になったまま口紅の処を押えておいでになるお母様の小指がワナワナとふるえていたのを私はハッキリとおぼえております。
 その錦絵の美しかったこと……そうしてその紙と絵の具の匂いの何ともいえずなつかしう御座いましたこと……ちょうど夏になり口で十畳のお座敷のお縁が一パイに明け放してありましたが散り拡がった錦絵の色と香《にお》いで、そこいら中が明るくなったように思いました。まずお父様が御覧になった絵を私が見てお母様にお渡しするのでしたが、三人共申し合わせたように溜め息をしては褒め、ほめては溜め息をしておりますうちに、ついお昼の御飯をい
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