おりましたが、お父様は矢張りこんな風に昔の名前を云っておられました)にお預けになるので、お母様はほんとうにお仕事の地獄に落ちておいでになるようで御座いました。
けれども、それでもお母様のお仕事は、ほかの処のより念が入っておりました。
頭の毛は極く安いものでないかぎり黒繻子の糸をほごして一本一本に植えて、小さな指先まで綿をくくめて爪を植えて、着物もそれぞれの恰好にふくら味を持たせた上に、色々の模様を切りつけたものですが、その模様も一つ一つ織り目が合わせてありますために織り出したもののように手際よく見えるのでした。お正月の羽子板も大きなのになりますと板ばかりでなく、張り抜きにした上の方を刳《く》り抜いて、戸障子や手水《ちょうず》鉢、石燈籠、植え込みなぞいう舞台の仕掛けものや、書き割りなどの模様を提灯《ちょうちん》の絵描きに頼むのですが、お母様はそれを御自分の押絵に合うように、お縁側に持ち出して、いろいろな胡粉《ごふん》で塗ったり乾かしたりしてお描《か》きになりました。それから押絵の下絵は、お母様が錦絵を二十枚ばかり持っておいでになるのと、お弟子から借りてお写しになった沢山の下書きの中から生れて来るのでしたが、優しいのや厳《いか》めしいのが見ているうちに出来てくるその面白さ……。又は大きな大きな袱紗に、金や銀や五色の糸で縫い込まれた奇妙な形の花や蝶々が、だんだんと一つにつながり合った模様になって行くその美しさ……お父様は、そのようなお母様のお仕事を、丸い桐胴《きりどう》の火鉢の向うから私と一緒に御覧になるのが何よりのお楽しみのように見えました。時々は押絵の足につける竹などを削って御加勢なさるそのお優しさ。
私はまたおとなしい方で御座いましたのか、あまり泣いたりなぞしたおぼえはありませぬようで、六つか七つにもなりますと、お母様から小切《こぎれ》を頂いて頭の丸いお人形を作ったり、お母様が美濃紙《みのがみ》にお写しになった下絵をくり返しくり返し見たりして余念もなく遊ぶのでした。その中《うち》でも、お母様の押絵のお仕事を見るのが何よりの楽しみで、お父様が畠のお仕事をなされながら、お母様をお呼びになるのが恨めしい位に思われました。
ことに又、その中でも、お母様が押絵の人形の眼鼻口《めんもく》をお描きになる時にはきっと私を呼んで御自分の前に坐らせて、「右を向いて御覧」とか「左を向いて御覧」とか仰有って私の眼や、鼻や、口もとをシゲシゲと御覧になっては細長い筆の穂先を嘗《な》めて、火鉢のふちに幾つも並べてある人形の顔に書き入れておいでになるのでした。その顔はいろいろで、私に似ているのは一つもある筈は御座いませんでしたが、それでも毎日毎日見ておりますうちに、私は子供心にその中から自分に似た眼や鼻や口をやすやすと選《え》りだすことが出来るようになりました。それである時、お父様が畠へお出でになったあとで、
「これはあたしの眼よ。この口も……この鼻も、眉毛も……」
と申しますとお母様は、
「よくわかるね。お前の顔は役者のように綺麗だから、お手本にしているのだよ」
とおっしゃって、お笑いになりましたが、そのあとでお母様は急にうつむいて悲しそうな顔になられますと、涙をポトポトと火鉢の灰の中へお落しになりましたので、私も何だか悲しくなりまして、その後は一度もそんな事を申しませんでした。ハッキリとは、おぼえませぬが、お母様の鏡台を御自分の前にお据えになって、御自分の顔を御覧になったり、私の顔をお覗きになったりして、私の眼鼻立ちと御自分のとを一緒にして押絵のメンモクになすったのは、それから後《のち》の事だったように思います。
こうしたお母様はお正月のお人形をお済ましになりますと、もうそろそろ三月三日のお節句の人形にお取りかかりになるのでした。
博多の店に二三軒中等物の約束があり、又田舎からも極安《ごくやす》ものを二百でも三百でも出来るだけドッサリ頼んで参ります。又二月になりますと、上物《じょうもの》を好み好みにわけて店から頼んで参りますので、二月も末になりますと、お母様のお忙がしさは眼に余るようで、徹夜をなさる事も珍らしくありませんでしたので、私はいつの間にかお父様のふところに抱かれて寝ている事が多いのでした。
三月になって、やっと安心してお母様に抱かれることが出来ると思います間もなく、梅雨の間に機織《はたお》り、夜具の洗濯、一年中の晴れ着の始末をなさるのですが、その間にも裁縫や刺繍を頼んで参りました。そうして六月に入るとポツポツ八月のお節句の人形に取りかかられます。福岡の習慣として三月過ぎに生まれた女の子は八月に祝うのですけれど、何となくハズミがつきませぬので、お母様はさほどお忙がしくなかったようです。
八月になりますと、もうお正月の押絵の
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