した。この三枚続きですが芝居を御覧になりました上でどんなにお作りかえになりましても構いませぬ。又衣裳が御覧になりたければ楽屋へお出でになって手に取って御覧になっても構いませぬ。私が御案内を致します。まことに不躾《ぶしつけ》では御座いますが費用も手数も一切いといませぬから、どうぞ奥様の一世一代のおつもりで後《のち》の世に伝えるものを頂戴致しまして、私の娘にあやからせて頂きとう御座いますが、如何で御座いましょうか」
 と、まごころ籠《こ》めてのお頼みでした。
 しかし、厳格なお父様はなかなかお許しになりませんでしたそうです。阿古屋の琴責めという芝居は、どんな筋のものかとお尋ねになったり、楽屋は男でも這入って行けるものか、なぞといろいろお尋ねになりましたので、柴忠さんが説明をされまして、芝居というものは辻学問といって仁義道徳の教《おしえ》を籠めたものとか、役者は河原者というけれど東京の俳優はそうばかりではなく、よい役者になると礼儀の正しい立派な人間ばかりで、角力取りや何かとは格式の違うものとか、いろいろに言葉を尽しましたので、やっと、
「それでは見に行こう」
 と仰言ったそうです。
 それからお芝居が始まりますと、小間物売りのオセキ婆さんを呼んで留守番をさせて、お祖母様とお父様と、お母様と三人お揃いで三日の間瓢楽座へお出でになりましたが、その最初の日には中村半太夫という方が羽織袴を召して、お父様たちの御見物の席に見えて御挨拶をされました。そうして、
「私の舞台姿が福岡で名高い奥様のお手にかかるとは一生の誉《ほま》れで御座います。何とぞよろしく……」
 と仰言って、お祖母様にはお茶器を、お父様にはお煙草盆を、又、お母様には紙入れを、それぞれお土産に下すったそうですが、それにはいずれも私の家《うち》の定紋《じょうもん》の輪ちがいの模様が金と銀とで入っておりましたので、お父様はビックリなすったそうです。そうして半太夫という方の御人品《ごじんぴん》に大そう感心をされまして「武士ならば千石取りじゃ」と人にお話しになりましたそうです。
 けれども、それから四五日目になりますとお父様は、
「俺はもう頭が痛くなりそうじゃ。お母様も最早《もはや》お倦《あ》きになったそうじゃから、俺はお母様と二人で留守番をする。許すからお前はオセキ婆と二人で見て来い。柴忠の折角の頼みじゃから」
 と仰言ったそうで、それでもお母様はお遠慮をなすったのを、お迎えに来た柴忠さんから無理にすすめられて、あと三日ほど御覧になったそうです。そうして五日目を御覧になった時にザッと下絵を描《か》いて、六日目に今一度芝居を見て細かい処をお直しになってから、お仕事にかかられましたが、それから一週間目にはもう阿古屋の琴責めの五人組の人形が立派に出来上りましたそうです。その押絵人形は、阿古屋の髪の毛を一本一本に黒繻子《くろじゅす》をほごして植えてあるばかりでなく、眼の球《たま》にはお母様の工夫で膠《にかわ》を塗って光るようにし、緋縮緬《ひぢりめん》の着物に、白と絞りの牡丹を少しばかり浮かし、その上に飛ぶ金銀の蝶々を花簪《かんざし》に使う針金で浮かしてヒラヒラと動くようにして帯の唐草模様を絵刳《えく》り込《こ》みにした、錦絵とも舞台面ともまるで違った眼も眩《まば》ゆい美しさの中に、阿古屋の似顔が、さながら生き生きとさしうつむいているのでした。それを、瓢楽座で日延べの二の替りを打っておいでになりました貴方のお父様が御覧になりました時、
「これは驚いた。自分が一番苦心をしている、昔の遊女の身体《からだ》のこなしを、どうしてこんなに細かく見て取られたものであろう。この遊女の姿態《こなし》ばかりは現在居る一番の錦絵描きでも描けないので、私の家《うち》の芸の中でも一番むずかしい秘密の伝授になっているものを……あの奥さんは不思議な人だ」
 と云って舌を捲かれたという事で、今でも博多の人の噂に残っているそうで御座います。
 その阿古屋の琴責めの五人組の人形が、柴忠さんの家《うち》の小さな本檜《ほんひのき》舞台に飾られました時の見物といったら、それは大変だったそうで御座います。申すまでもなくその時はお父様も、お母様も柴忠さんの処へおよばれになって、大層な御馳走が出ましたそうですが、その押絵を見るために態々《わざわざ》遠方から見えた御親戚や、お知り合いのお節句客の応対だけでも柴忠さんは眼がまわるほど、お忙がしかったそうで御座います。そうしてそんなお客が、お節句を過ぎてまでも、なかなか絶えそうに見えませんでしたので、しまいには柴忠さんも笑いながら、こんな事を云い出されたそうです。
「これはたまらぬ、いくら娘の祝いだというても、こんなに京大阪の旅人《たびにん》まで聞き伝えて見に来るようでは、今に身代限りになりそうだ
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