る。君さえ承知してくれれば君は僕の妻だ。僕は生命《いのち》も何も要《い》らないのだから。その証拠にサア接吻を……接吻を………」
ああ。何という雄々《おお》しいお心で御座いましょう。何という御親切で御座いましょう。もし私があの時に気絶せずにおりましたならば、どのような事になっておりましたでしょうか。
やがて、ひとりでに気がつきました時に、私の唇や頬に残っておりました貴方様のほのめきのおなつかしかったこと。悲しゅう御座いましたこと……。
ああ。あの時に私は、どんなに泣きましたことか。何事も御存じないあなた様を、こんなにまでお苦しめ申し上げる私の罪深さ、運命の意地の悪さを、どのように怨み悶えて泣きましたことか。
そのうちに夜が明けかかりますと、私は附添の看護婦さんの寝息を見すまして起き上りまして、高い熱のためにフラフラ致しますのを構わずに、身のまわりのものを纏めて病院を脱け出しました。それから演奏の時に着ておりましたものの上に被布《ひふ》を羽織りましたまま汽車に乗りまして、故郷の九州福岡へ帰りました。そうして博多駅より二つ手前の筥崎《はこざき》駅で降りまして人目を忍びながら、私の氏神になっております博多の櫛田神社へ参詣致しまして、そこの絵馬堂《えまどう》に掲げてあります二枚の押絵《おしえ》の額ぶちに「お別れ」を致しました。
あなた様と私の運命にまつわっております不思議な秘密と申しますのは、その二枚の押絵の中に隠れているので御座います。私の背中と胸にあります突き疵《きず》と申しますのも、あなた様のお唇を安心してお受け出来ないようになりました原因と申しますのも、みんな、もとを申しますと、その二枚の押絵がした事なのでした。ですから私はその運命とお別れを致したいためにわざわざ九州まで参りましたので御座います。早かれ遅かれ助からぬ生命《いのち》と存じまして……。
けれど、その二枚の押絵をあおのいて見ておりますうちに私は何かしら、或る気高《けだか》い力に引き立てられて行くような気持ちになりました。
その中《うち》の一枚は八犬伝の一節で、犬塚信乃《いぬづかしの》と犬飼現八《いぬかいげんぱち》が芳流閣《ほうりゅうかく》の上で闘っておりますところで、今一つは阿古屋《あこや》の琴責《ことぜ》めの舞台面になっております。どちらも大きな硝子張りの額ぶちに入れてあります上から今|一重《ひとえ》、頑丈な金網で包まれて、絵馬堂の西の正面に並べられているので御座いますが、それを見上げておりますうちに、これは、もしかしたら、その押絵の中に籠《こ》もっております、貴方様と私との運命を包む神秘の力が、今一度新しく、私の心に働らきかけているのではないかしらと思いましたくらい、私の身うちがゾクゾクと致して参りまして、何かしら不思議なお酒に酔っているような気持ちになってしまったので御座いました。
その時ほどに運命の力というものをシミジミと嬉しく、楽しいものに感じましたことは私の一生のうちに一度も御座いませんでしたでしょう。
この世の中に運命でないものは一つもない。ですから私はこの病気で死ぬものときまってはいないでしょう。
もしかすると今一度、不思議と健康な身体《からだ》になって、あなた様にお眼にかかるような事がないとも限りませぬ。
そのような運命を知っておりますのはこの二つの押絵ばかり……その中でも、刀を振り上げている犬塚信乃と、琴を弾いている阿古屋の二人だけが、何もかもチャンと知っているので、その運命に、私のかよわい力が逆《さか》らおうとしても何の役に立ちましょう。
私はこうした運命の手に抱《いだ》かれて、貴方様のお傍に参りましょう。そうしてお懐かしいお胸に縋《すが》って、今までの事をスッカリお打ち明けして、心ゆくまで泣かして頂きましょう。
それが私のホントの運命なのでしょう。
こんなような、七八《ななや》つの子供が夢みますような、甘えた、安らかな気持ちになりまして、うつつともなくウトウトしながら上りの汽車に乗ったことで御座いました。
東京へ帰りつきますと、わざと、場末の名もないような小さな宿屋に泊りました。そうして前にも申上げましたように、そこであれから後《のち》の新聞を読んだので御座いますが、その記事の中でも、とりわけて身を責められました貴方様の御親切の程……それは私の肉体と心につき纏うております世にも恐ろしい、不思議な秘密のすべてを露《あら》わにしてお眼にかけましても、後《あと》へはお退《ひ》きになりそうに思われませぬお心のほどと、そのために急に重くおなり遊ばした御病気の事を承知致しますと同時に、あなた様と私との運命を支配致しております、あの押絵の神秘の力を、どのように空恐ろしく思い知りましたことでしょう。どのようにその新聞紙を抱《い
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