が御覧になりましたならば、きっと気が変になったものとお思いになったでしょう。
 お兄様……ああ……おなつかしいお兄さま……。そう申し上げてはわるいのかも知れませぬけれども、どうぞおゆるし下さいませ。私はその夜《よ》から貴方様を私のタッタ一人のお兄さまときめてしまっていたのですから。そうしてもしホントのお兄さまでおいでにならないのでしたら、そのホントのお兄さまよりももっともっとおなつかしい大切の大切の秘密のお兄様と思って恋い焦れながら死んで行きたいと、そればかりを神様にお願いするようになりましたのは、その夜《よ》からの事で御座いましたから……。
 そのあくる朝になりますと、私は熱が出ましたようで、時々クラクラとたおれそうになりましたが、一生けんめいに我慢をしまして、思い切り白くお化粧をして顔色の悪いのを隠してしまいました。
 それを奥様が御覧になって、
「マア。トシ子さんたら。何て慌て方でしょう」
 とお笑いになりながら髪結《かみゆ》いさんを呼んで来て下すったのですが、その時に私は「生れて初めて他人に髪を結ってもらうのだ」と思い思い鏡と向い合ってはおりましたが、心の中は睡《ねむ》ってばかりおりましたようで、気が付いた時にはもうスッカリ高島田に結い上げてありましたのを見て思わず「アラッ」と云って髪結いさんに笑われました。
 それから故郷を出ますときに柴忠さんのお嬢さまから頂いた一張羅《いっちょうら》の着物と着かえまして、先生御夫婦のお伴をして上野から鉄道馬車に乗りましたが、久し振りに厚ぼったい帯をシッカリと締めましたので気がシャンとしましたためか、それともまだ外はつめたい風が吹いておりましたせいか、馬車に乗っております間は居眠りをしなかったようで御座います。けれども歌舞伎座へ這入って平土間に坐りますと間もなく、人イキレであたたかくなりましたせいか、又もウットリとなりまして、お芝居通の先生や奥様が色々と説明して下さるのを、夢うつつに聞いているばかりで御座いました。
 お兄様が阿古屋に扮《ふん》して出てお出でになりましても、同じように睡くて睡くてボンヤリしておりましたようで、それを我慢しいしい眼を瞠《みは》っておりました苦しさを、今だにシミジミとおぼえております。あとでのお話によりますと、お兄様もその日はお加減がわるかったのを、無理におつとめになりましたのだそうで、その悩ま
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